about my spring

思考の通過点 / 19歳

『人間失格』に"共感"した。

私には今、わたしを襲う得体の知れない恐怖があって、自分でも自分のことがよくわからなくて、まわりのこともよくわからなくて、混乱しています。
もっともこの混乱は常習的なもので、私は以前からずっと明るい私と、世界の光が見えているわたしと、世界の暗さ、それは本当に胎道みたいな真っ黒の塗りつぶされた闇ですが、そういうものしか見えなくなってしまうわたし、その三者が共存しているように思います。今までと違うのは、明るい私、これは対人において楽しく振る舞える私という意味ですが、それが三つ目のわたしに飲み込まれつつあるという点です。わたしは明るい私を疑って、その明るさを暴こうとしている。そこで押し寄せた脅威が今の私の混乱に等しいものなのだと思います。

・・・

人間失格』を読んだ。面白かった。何が面白かったかというと、男の心情が。似ていると思った。私は視覚的でないものごとについて似ているとか、特にそれが感情とか内面的特質である場合には使いたくないんだけれど、それなら違うふうに言ってみると、私は彼に”共感”できた。もちろん全部ではない。彼は鎌倉で女と心中を図るし、アルコールとモルヒネに溺れるし、最後には廃人と化して「人間失格」してしまう。私はどこにでもいるただの女子高生で、人と心中を図ることもしないし中毒症状に悩まされるほど何かに依存しているわけでもない(依存気味、というとスマホくらいだろうか)。そして廃人(ここでは懊悩の感情さえも失った人間)でもない。彼と私は根本的に違うから、本当は共感というのもおこがましい。それでもこうして文章を書こうと思ったのは、今の私の悩みのようなものに、何か通ずる観念が『人間失格』に描かれていたからである。
※ここでは本文から伺える男の精神性と私の現在の思考記録を並列しながら述べていく。あまりこういうやり方は好きではないけど、それでも今回ばかりはやってみる。思考整理のためだから。私は自分を知りたいのです。
※ちなみになぜこういうやり方が好きではないのかというと、”共感”というのは自分にとっては圧倒的な説得力があるけれど、第三者からすればそれは極めて感覚的なものでしかないから。小説に限らず、何かを解釈し自分の言葉で説明付けてみるためには、自分自身に湧き上がってきた共感からではなくそこに示された文脈から、できる限り客観的に、ロジカルな思考で向き合わなければならないと思う。じゃないと論理的じゃない。主観は所詮主観でしかない。まあ要は共感は考察ではなくただの感想なのだ。

「つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか?エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか?それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、…」(p.13)

私は人と対峙するのが怖い。誰かが私のことを考える、というのがとても怖い。

(2021.8.21のメモより引用)
なぜなら人はみんな自分だけの色眼鏡を持っているからです。
人の数だけその眼鏡はあります。分厚いレンズを持っている人もいれば、極めて薄いレンズの人もいます。眼鏡にヒビが入っていたり、歪んでいたり、あるいはブルーライトカットの機能みたいにある一つの光線が通るのを許さないものもあります。自分がそういったものをかけているのだと気付いている人もいれば気付いていない人もいて、自覚してはいるけれど眼鏡の型を勘違いしている人もいて、もちろんその中には私も含まれています。人は自分の眼鏡を外すことはできないのです。自分の顔が鏡なしでは見れないのと同じで、眼鏡が具体的にどういう様相をしているか、正確に知ることはできません。思えば私は常に自分や人の色眼鏡のことを気にしている気がします。自分が普遍ではなく装着者の一人なのだと知ったとき、私は自分に見えているものが信じられなくなります。レンズを取っ払おうとしますができません。私が私である限り自力でそのレンズのありさまを認識することはできなくて、私は常にレンズの最薄地点を見極めようと奮闘している気がします。
私が怖いのは、他人にレンズ越しに「私」という存在を規定されることです。例えばよく「あの人の気性は荒い」「あの人は単純な考えをしている」などと人を言ったりしますが、私は人にそういう風に形容されるのが怖いのです。私ですら私のことをよく知らないのに、他人に自分についての感想を持たれるのが私にとっては脅威、暴力でしかないのです。正直今は感情が高ぶって強い単語を使ってしまっているので、常日頃からこういった恐怖に慄いている訳ではありません。ただふと一人で考え込んだ時や、人と親しく話した直後、知らず知らずのうちにストレスが溜まっている気がします。
私と話した後は私のことは一切忘れてほしい。一人になった時私のことを考えないでほしい。私に対して何か感想をもったり、私のことを友達同士で話題にするのはやめてほしい。友達に好きだと言われると、私の何を見て好きと思うんだろうと訝しがってしまう癖があります。自分に自信がないからというのもそうだし、私の何を知ってるの?と、突き放すとかではなく純粋な疑問として、不思議に思ってしまいます。人が信じられません。私が信じているのは結局自分だけなのかもしれません。でも自分自身でさえ信用に値するほど素直で、実直な人間ではないのです。

(2021.8.28のメモより引用)
人の苦しみは相対的なものではありません。苦しみや痛みや悲しみはそれぞれにそれぞれのひとつしかありません。同じ種類の、同じかたちの、同じ味をした痛みは存在しません。あなたの痛みはあなたのものだし、私の苦悩は私だけの苦悩です。私が人に理解されることを諦めるのはそういうことです。人を理解しようとするのはある意味では暴力です。

このことには今年度のはじめ、6月くらいからすでに怖気付き始めていたようである。人の目に移るのが怖かった。30人かそれ以上の、私のことを表面上は認識している程度の、他人と知り合いの間くらいの人がいっぱいいる教室が怖かった。何か感想を持たれるのが怖かった。私がみんなに感想を持つように。教室の真ん中の席は嫌い。四方八方を人に囲まれて、逃げ場が無いから。電車とか喫茶店は良い。私の隣にいる人も私がどういう人間かは知らないし、私も相手が一体どういう人で、どこで働いていて、どういう過去を持つかなんて何も知らない。彼は私に感想を持たない。学校の人は違う。私のことを知ってるし、無邪気だし、だから怖い。決めつけられそうで。あなたの眼鏡越しの私はどういう風に映っている?繊細なわたしが、あなたの傲慢な承認欲求に摩耗されはしないか。削れるのが怖くて、擦り減るのが痛くて、今はただただ怖いです。
私を理解しようと勝手に奮闘されるのはもっと嫌だった。中三の時に面談したあの先生の目が怖かった。会話の中から私がどういう人間なのか、何を考えているのか、些細なことも見逃さないぞ、みたいな気概がすごかった。間違って出したほつれの糸さえ強く強く引っ張られそうになった。あなたは何で私のことを知りたいの?変だから?遅刻が多くて、周りからちょっとはみ出ているように見えるから?私が学年の中で心配な子の一人だったって、そんなこと言われても、困る。自分だってなりたくてなってるわけじゃないし。心配されたって困る。私を共同体の輪の中に押し込もうと奮闘するあなたの腕力が痛くてたまらなかった。でもそうしてでも、何食わぬ顔して輪と手を繋いでなくちゃいけない、そういうこともわかっている。わからないとでも思ったのか?あなたは私のことを理解できるとそう思ったのだろうか?人を理解しようとするのはすごく、怖いことだと思う。もしそれを試みようとするならそれは、独りよがりで、エゴイズムで、自己陶酔の独白でしかない。でもそんなこと考えずに生きていけるならそれでいいし、それが楽なんだろうな。簡単に暴力を被ってしまう私が、それを暴力だとか思ってしまう自分がおかしいんだろう。

学校という場が、そもそも向いてないんだと思う。近い年の女の子たちが小さい箱に詰め込まれて、その中に一人二人、そういうたくさんの、十人十色の子供達を相手にする大人がいる。同年代の子は無邪気すぎて怖いし、大人は逆に、こちらをじっと見つめてくるから怖い。そもそも生徒を一人一人ちゃんと見なくちゃいけないのが先生だから、それが職業だから仕方がないんだけど、だからこそ「この子はどういう子なんだろう」みたいな目で見つめられるのが怖い。子供の無邪気に傷付けられるのも、大人のエゴイズムを吸い込むのも苦しい。例えば周りは山で、私は山間の谷だ。周囲には情報が土砂降りに降り注いでいて、山は崩れ、土砂として谷に流れ込んでくる。崖の淵から周りを見ていたら、情報がものすごい勢いで、こちら目がけて下降してくる。私は逃げ出したいのに、どこにも逃げ場がなくて、たまに過呼吸になって、たまに涙が出て、どうしようもなく苦しくなる。

・・

「そこで考え出したのは、道化でした。…そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。」(p.14)

「『ワザ。ワザ』自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ!と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。」(p.29)

「『あのひとのお父さんが悪いのですよ』何気なさそうに、そう言った。『私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、…神様みたいないい子でした』」(p.155)

人と話す時の自分を、友達と冗談を言って笑い合う時の自分を遠くから見つめてしまったのがきっと良くなかった。私は一人の時と誰かと話している時で、びっくりするくらい人が違う。一人だとずっとこんなこと考えてる。よくわからないことをずっとぐるぐる考えている。でも人にそのことを気付かれるのが怖い。変だね、おかしいね、考えすぎじゃない?すごい考えしてるんだね。そう一歩引かれた目で見られるのが怖い。逆になんでそうやって平然と生きられるんだろうと思うけど、でも平然と生きることに苦労する人の方が少数派なのかもしれない。暗さに覆われた自分を知られるのが怖くて、人の前だとおどけて振る舞おうとしてしまう。今朝のしょーもない発見とか、くだらないあるある話とか、世界一興味のない恋バナとか人の噂話とか。全部興味が無いし、話したくもないのに話してしまう。私にとって会話って、ものすごく神経を使うことなのだ。相手の話のどこで相槌を打つか、数秒空いた間に違和感はあったか、あちらに話題がなさそうだから今度は私から話した方がいいかも、この話はきっと共感して盛り上げて欲しい内容だから、聞き役に徹した方がいいかも。そういうのをずっと考えながら常にパニック状態で話している気がする。だからそういうのの後はものすごく疲れている。自然に(あの時は絶対にこうした方がよかった)みたいな反省会が始まって、自分の拙さに落ち込んで、フル回転状態だったアンテナが息切れする。一人の時、アンテナが完全に停止しきった状態の私は誰にも知られたくない。だから休日に知り合いに会うとものすごく驚いて、「しまった」と思う。瞬時に自分の出で立ちが、顔が、様子が、雰囲気が、陰気ではなかったかと。陰りを帯びてはいなかったかと心配に駆られる。ギクリとする。相手を訝しがってしまう。もしかしてあなたは見たんじゃないの?学校から一人で帰る時、通学路で友達に会うのが苦手なのも同じ感覚だ。一緒に帰ろう、という流れになると、アンテナを戻すのがしんどくて、気持ちが追いついていかなくて焦る。
会話に関しては大人と話す方が楽だ。多分年が上の分、相手の方がそういう気は遣おうとしてくれているはずだし、ちょっと私の話が下手だったところで若さに免じて許してくれるだろうと安心できる。バイト先でもツイッターでも私は結局同年代の子たちじゃなくて、年が一回りくらい上の人とよくお話ししていたし、そっちの方が落ち着いていて楽でまだ安心できた。

私には多数派から少しズレた感性がいくらかあるんじゃないかと思う。学校で反省文を提出したことがある人間なんてそんなに多くないはずだ。多くの人は異性を好きになるだろうし、できれば恋愛の高揚感を味わいたいと思っているし、教室に入るのが怖くて脚が竦んだことだって数えるほどしかないだろう(一回も無いかもしれない)。なんだか生きている中で、私の周辺環境もあるのかもしれないけれど、違和感を感じることがよくある。人と違う考えをしてるな、違う感性でものを見てるな、自分をありのままに振る舞ったら、きっと今いる世界から逸脱してしまうだろう。そういう生きづらさがずっとある。
大丈夫?と聞かれるのが苦手。大丈夫って、あなたにとっては何がどういう状態なら大丈夫なのだろうか?仮に私が大丈夫じゃないと答えて、あなたはどうするの?大丈夫になって、と励ますの?慰めるの?大丈夫だよ、と抱きしめる?私が大丈夫かどうかなんて、知らせたところで何にもならないし、何かになるというならそれはただの自己満足なんじゃないか。
そこには「大丈夫」と「大丈夫じゃない」の区分けがある。あなたには自分の理解できる範疇があって、そこから大きく飛び出していれば理解できなくなる。私はきっとそこにいるのに。
たとえばその範疇は、シリコンの鋳型みたいなものだ。ある程度は柔軟に形を変えられるけれど、限界値を超えると破壊される。輪ゴムが、伸ばしすぎるとある時突然プツンと切れるみたいに。みんながみんな鋳型を持っているわけじゃないし、その鋳型も大きさや重さや硬さはそれぞれ違っている。でも私がたとえば誰かと対峙して、その誰かの中に彼/彼女の鋳型を見つけたら、私は萎縮してしまう。相手が鋳型を持っていたら、多くの場合私は彼と真っ向勝負なんてせず、自らをその鋳型に収めようとしてしまう。その鋳型が壊れないように自分から形を変えて、ぎゅうぎゅうだなって、窮屈だって思いながらそれに合わせようとする。それが葉蔵にとっての”道化”なのかもしれない。少なくとも私は、相手の鋳型に合わせて自分の形を変えるその瞬間にひどく疲弊する。結局私はわたしが大事で仕方ないんだろう。大切にしたくてしょうがないのだ。自分を偽るのはどうしてこんなに苦しいんだろうか。わたしって私の何なんだろうか?お前はそんなに価値あるものなの?私をこうまでして疲れさせるほど、私はわたしを守らなくちゃいけないのか?
結局マダムにさえ、葉蔵は理解されなかったのだ。だって、お父さんが悪いわけじゃないんだから。葉蔵は葉蔵で、あのままの彼で、あのままの彼だからこそアルコールやモルヒネに溺れなくてはいけなくて、”彼だから”ただそれだけの理由で、ひたすら懊悩、懊悩に蝕まれていったのだ。人間失格になったのは他の誰でもない彼なのだ。でも人間なんて所詮その程度なんだろう。あそこまで赤裸々で、無茶苦茶で、痛みつけられた手記を持ってしてさえ、人間は人から理解されないし、人間は人を理解できないものなのだ。見たいものだけ見てしまう。私も含め。
人間失格』のこの締め方は最高だと思った。最高の、最悪な絶望。

・・・

ここまで書いて一息つけた。結局こうして綴っても、私は怖いばかりだった。何が何だかわからない。わからないって言えば済むと思っている。ひどい文章だけれど、人に読ませたくて書いたわけじゃないし、別にいいや。こういうのもあるよね。
もちろん私のとめどない思考はこれがすべてではなくて、こうやってもっともらしく太宰治の『人間失格』を引用したけれど、実は巻末の解説もまだ読んでいない。とりあえずなんの先入観も入れずに感想を書いてみたかった。
太宰治を読んだのはこれが初めてだし、というか国語の教科書以外で日本の死んだ作家の小説を読んだのもこれが初めてだ、少なくとも記憶上は。死んだ作家というのはつまり日本の近代小説だとかそれ以前の古典文学だとかそういうものを指しているのだけれど、それこそ先入観で、「昔の日本の小説は文体が今と違って読みにくいから嫌だ」みたいな印象で今までずっと倦厭していた。でも村上春樹が言うように(村上春樹とか重松清とかは読みやすいから何冊か読んだことがある!…っていうあたり読書経験の薄さが露呈している)時の洗礼を受けてそれでもなお読み続けられている作品はそれだけ人間の普遍的な部分に詰め寄ったものであるということだと思うし、実際『人間失格』の心情描写の多さは私の忙しい思考には合っていたように感じたので、これから近代小説にも手をつけ始めてみようと思う。今まで倦厭しててごめん。


多分数年後にこのブログ読んだら、知見の浅さや自己陶酔感にドン引くんだろうな。。。


おわり
2021.09.09