about my spring

思考の通過点 / 19歳

最近の私に関する発見ふたつ

考えているうちに少し自分に関して発見があったのでブログに記すことにします。

発見ひとつめ、感覚過敏みがあるかもしれない!

これはあくまで予想だし、傾向があるなあという肌感だけでの話なんだけど。というか私は自分に対して病気とか症状の名前をつけて安心する、みたいなのがすごくエゴに見えて嫌いだからそういうのも本当は嫌なんだけど・・・だからまあ、感覚過敏という言葉を使うよりかは、「周辺の情報や感知した環境状況に対して上手く反応できない」傾向がある、といった方が良いかもしれない。

例えば人混み。特に新宿駅。これは正直割と誰にでも当てはまることなんじゃないかと思う。
人混みや満員電車みたいなのは誰でも気疲れすると思うんだけど、私は同じ人混みでも場所によって、過剰に疲れて精神がひどくささくれるときや、あまりそういうのが気にならないときがあるから、それについて分析してみる。
私は多分周囲に溢れる情報をよく見よう、よく知ろうとする意識があるんだろう。だから前回の記事でも書いたけど、教室みたいな場所は精神をすごく消耗する。私にとっては人間というのもまた情報で、しかもそれは本とかそういうのよりもずっと膨大な、重量のある情報だ。相手には自分と同じように意思や感情があって、その人の経験と生来的な特質から練り上げられた思考体系があって、しかも人形とは違って自発的に行動を起こすから、私にとってはきっと思考対象における最重要事項の存在なんだと思う。学校みたいな場所だと、ある程度、表面的には周りの人間がどういう人なのかというのを知っていて、中途半端にその情報の中に片足を突っ込んでいる状態だから、余計に困る。中途半端に知っているみたいな状態が私には一番辛くて、ドアが開いている、その奥の玄関まで見えている状況なら、玄関に上がって先を見なくてはいけない気持ちになる。(相手の心の玄関とかの意味ではないです。中途半端とかの度合いの比喩です)
満員電車よりも新宿駅構内で歩いている時の方が疲れるのはなんでだろう。それは多分、構内で歩くときにすれ違う人間の方が、情報がよく見えているからだと思う。例えば電話で友達と話してるし、余裕なげな小難しい顔をしながら足早に改札へ向かっているし、たまに悪意を剥き出しにしてこちらにぶつかってくる人もいる。相手のことが車内よりもよく伺えるから、そして新宿駅構内は結構イライラして悪意に満ち満ちた人間も多いので、その分精神的に疲弊しがちなんじゃないか。お祭りの人混みがそれよりも平気なのは、多分悪意を感じることが少ないからじゃないかな。みんな比較的意気揚々としているから、こちらも深刻にならずに済むんだろうと思う。ありがちな考察だけど。
人の怒鳴り声が苦手、集団や人間の終結により加速するエネルギー、その高揚感が苦手(ナショナリズムとか、オタクの作るツイッタータグとか、他にも色々そういう類のもの。スポーツ観戦もそうかもしれない)。

あと、学術的な本や取扱説明書や資料集を読むのが本当に苦手なんだけど、それもここから来ているのかもしれない。そう思うと納得する点も多かった。
例えば論文とか取扱説明書て、全部同じ字の大きさだし、同じ色だし、一文字単位での視覚的情報が類似しすぎてるのよね。しかも文字って、必ずそこには意味があるから、それだけでも私にとっては重大な情報で、つまり視覚的にも内包的にも情報量がほぼ等しくて差異がないから、どこから手をつけて良いかわからなくなってしまう。イメージとしては文字がこちらに向かって発声している感じかもしれない。みんな同時に自己主張するから、何を言っているのかわからない。周りに散在する文字たちの声を振り払って一つの文章を捉えるのが結構疲れる。集中しないと読めないから(それはそう)読むのがめんどくさくてしんどくて結果読みたくない!になる。他にも多動性みたいなものは関係していると思うけど、そういう部分はあるかもしれないなと思った。


それと二つ目の発見、自分は常に相対評価の価値基準があるのかもしれない。

これは私のいろんな習性につながる発見だった。
例えば私は争いごとや勝負ごとがものすごく苦手だ。今までも勝負が必須の個人スポーツ(卓球とか、競技かるたとか)をやっては、その度に自分の勝負欲のなさとか、負けず嫌いを超越した勝負放棄癖みたいなものに「???」ってなっていた。なんか、相手と対峙した瞬間に逃げたくなる。ああもう、戦うのめんどくさい、どうせ負けるし、いいですどうぞ私という屍を踏み越えてお先に行ってください。みたいな気分になる。試合前の気合を入れるルーティーンみたいなの何回かやってみたけど「逃げ出したい」の邪念しかなくてかけらも成功しなかった。「絶対勝つぞ」みたいな鼓舞をされても正直よくわからない。勝つか負けるか決まるのが怖い。相手に負けるのが怖いし勝つまで戦うのも怖い。粘るとかいう概念もない。
でもその割に自分は完璧主義で、評価をつけられるならトップになりたいと思う節がある。マルバツで丸をつけたいんじゃなくて、ピラミッドのトップかその上に行きたい。多分これは勝負からの逃げなんだと思う。不戦勝をしたいだけなんじゃないか。スレスレのところで勝ち負けを決めるのが嫌だから、試合放棄か、あるいは圧倒的な力量で勝負するまでもない状況にするか。そういう思考回路しかない。でも現実問題、トップに立てるほどの秀でた何かは無いわけで、だいたいトップに行くまでにもそのフィールドにいる人に多少の勝負は挑まなきゃいけないわけで、そうなると全てが嫌になってしまう。なんか、生きるのマジで向いてないな。これは受験もしんどいはずだわ。腐りきったプライドは、一旦地に叩き落とされないと好転しないんだろうか。それか、安定して勝てると思うフィールドに転身するか。でもそんなのあるのだろうか?努力できる才能ってやっぱり一番大事だと思う。それがなくちゃ結局何者にもなれないから。

で、何が言いたかったいうと、こういう自分の勝負ごとに対する逃げ腰の根底にある価値観は”相対評価への気鬱”だと思うのだ。自分は常に人と自分を比べて、自分じゃなくても何かを論じたい時にはそれの比較対象となりうるものを持ってきて相対評価を図り、物事の立ち位置や、価値を決定しているように思う。なんでこうなってしまったのだろうか。やっぱり小学校時代から受験に向けて数値で周りと比較され続けてきたから?環境の問題?それとも自分の生来的な性格によるものなんだろうか。
とにかく私はなんでも相対的に見てしまう癖があって、でも自分がその軸にかけられて優劣をつけられたり価値を見出されたりするのは窮屈で(そもそも人間的に問題がありすぎて大体は”劣”に振られるのだ、私の育ってきた学校はみんなそれなりに優秀なので尚更。)そこから逃げ出したくてこうなってしまうんだと思う。

そして私がなぜ”人間の普遍性”というものに強く拘り、また強く惹かれるのかもわかった気がした。私は小学生か中一だったかの頃、新勅撰集/小倉百人一首「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」と平家物語祇園精舎」が湛える無常観を理解してから、今も昔も変わらない人間の普遍的な観念のようなものにすごく興味がある。人間の普遍的な観念とは言い換えれば時を経ても変わることのない絶対的な真理のようなもので、日頃自身の相対的価値基準に悩まされることの多い私からしたらそれは圧倒的に崇高で、尊い、憧れような存在なのかもしれない。なんの相対評価も必要としない、絶対に絶対的なもの。そういうのが知りたくて、そういう情感を想起させるものが見たくて聴きたくて、動いてしまうことがよくある。今思えばどうして四者面談に加え反省文を書かされるまでアーティストのライブに参加することにこだわったのかもわかる気がする。ダメだけど。それでも多分私はそういうものに少しでも近づきたくて、ある意味強い本能に突き動かされていたんだと思う。このことに対する自分の頑固さと、共同体維持のための規範が正面衝突したのが一昨年の四者面談&「怠業」認定だったんだと思う。かっこよく言い過ぎだけど。つまり自分の欲望に負けて先生に怒られて反省文を書きましたという話です。今となっては貴重な思い出。

以上、最近の私の発見でした。
映画と本の感想もそろそろ書かなきゃと思ってるんだけど、なかなか手が進みません。なみだ・・・・
健康に生きよう。

おわり