about my spring

思考の通過点 / 19歳

芸術とは想起である


芸術という人の営みのなかに潜む反復性は、受け手の絶え間ない想起なのではないかと。

我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。



プラトンイデアに関する説明に変に説得力を感じてしまったのは、私が何か芸術の産物を享受したときに、胸のうちに湧き上がっている感覚というものを上手く説明されてしまったような気がしたから。ずっと不思議だった。ある曲を聴いたとき、ある映画を見たとき、ある本を読んだとき、沈んでいく夕陽のオレンジに包まれたとき、心臓が波の音に呼応したとき、水面に散らばる光を追いかけたとき、
この心が震える感覚はなんだろうと思っていた。感動した、っていう言葉は文字にすると安っぽくて好きじゃないけれど、そういうことなんだろう。私の内側にある熱くてトロトロした何かが、共鳴して蠢くような感覚。理由もなくそういう思いがするのは、人間の本能的な感度なのか、それとも遠い記憶の想起なのか。私が忘れてしまった大切な何かを思い出しているんじゃないか?プラトンの言葉を借りればそれは天上の世界においてきたものごとの真の姿なのかもしれない。もちろんプラトンはこういった感覚的すぎる話からではなくてもっと論理的なアプローチで彼独自の哲学を昇華させているんだろうけれど、まあそこに関しては知らないことが多いから詳しい言及は避けるとして、ひとまず私はこういうスピリチュアルな心理体験から彼の突飛とさえ思えるような理論に若干の納得を呈してしまったのである。

夕陽が綺麗と思うのはなぜ?大海原にぷかぷかと浮かぶのが脅威なのはなぜ?空の青さに胸を打たれるのはなぜ?どうしてあなたの涙の味がわかる気がするのか。どうして一緒に泣けるのか。どうして誰かを想うと無性に胸が痛くなるのか。
関係ない話だけど、母親のお腹の中にいるときの羊水の成分と、海水の成分は類似性が高いらしい。

人間には鋭い鈍いはあるにせよ感性や情動みたいなものが備わっていて(何かしらの問題を抱えていない限り多くは)、それがすごく不思議だと思う。イデアとかの話で片付けてしまえば楽だけれど考えても考えてもなかなか答えの出ない観念的な論題だし、でもそれは確実に存在して、芸術はそういうあまりに説明のつかない高度に感覚的な精神を想起させる営みでもあるんじゃないかと、何度も考える。これは私が常々憧れてやまない人間の普遍性にニアリーイコールの概念である。
ヒポクラテスは「芸術は長く、人生は短い」と。
「少年老いやすく学成り難し」と残したのは朱熹らしい(諸説ある)。
日本人は古の時代から散りゆく桜を見ては自分のようだと袖を濡らしたし、線香花火には変化する段階ごとに人生さえ投影してしまう。
(「あはれなり」の日本人的感性とキリスト教文化の精神性を並べて述懐するのは微妙な気がするけど。)

人間失格』の巻末の解説にて、奥野健男さんの最後の文章が印象に残ったので引用する。

この作品は、ある性格を持って生れた人々の、弱き美しきかなしき純粋な魂を持った人々の永遠の代弁者であり、救いであるのだ。


私が救われた当事者の一人なのでひどく首肯してしまったのだが、実際芸術に浮かび上がる普遍性とはこういうことだと思う。例えばスマホやパソコンなんかは多分あと30年もすれば廃れてしまう文化だけれど、芸術というものは結局「人間」という(ただその一点だけの!)共通性で古今東西どこにだって繋がれているのだ。普遍性に触れた作品はどんなに時を経たとしても、受け継ぐ媒体が人間である限り、きっといつまでもリアリティのある共感や感動として輝き続ける。100年以上前に生まれた太宰の痛みが、今の私の胸のうちにも生々しく蘇ってくるように。ラスコーの洞窟壁画の生命力に現代人さえも感服してしまうように。もちろん科学の発展が生む現代の利器や新技術の恩恵は嫌というほど受けているし、それが不要だとか、芸術に劣るとか否定しているわけでは全くない。だけど私はやっぱりそういう、「人間」というただ一点で膨大な月日の山積を貫いてしまうみたいな絶対性にロマンを感じずにはいられない。


ここで私が最近心を揺さぶられたふたつを紹介します。『アリー・スター誕生』のガガの歌唱もめちゃくちゃ感動したんだけど、それは前にブログにまとめたので…。

ひとつめ、バンタンの『Permission to dance 国連ver.』!!!

youtu.be


まあ、曲がまず良いよね。メロディーラインが天才で…洋楽リスナーの受けを狙って作られたにしてもあまりに良くて……
これ見たときメンタル死んでたんか知らないけど、BGM代わりにでもしようとなんとなく流したのが国連バージョンで、アホみたいに見入ってしまいました。
多分、曲の良さやバンタンのパフォーマンス力の高さもあるんだけど、”BTS”というグループがこの曲をここで歌っている、そのことに対してものすごく価値を感じたし、訴えかけられるものがあったと思うんだよね。というのも、バンタンって、(2018年の一時期以外ほぼお茶の間目線でしか見ていなかったから浅いことしか言えないけど)「アイドルとアーティストの狭間で葛藤し続けてきた青年たち」だと思うんです。

「アイドル」は、事務所に用意された舞台と、楽曲とコンセプトを、忠実に消化していく人たち。ファンという特殊な集団に、自分の身体のある側面や表現を提供し続け、食い続けられる不思議な存在だと思う。まさに偶像、ファンに生身の自分自身をもって夢を見せる虚構のかたまり。悪意のある言い方だと思うかもしれない。でも実際そういうものだ。私の推しのセフンは、あるラインから先はびっくりするほど見せてくれない(見ようとも思わないけど)。ここから先はあなたたちの好きに理解して良いよ、でもここから先は絶対に見せないよ。そういう意識。他人の人格を食い物にしてるんだからファンって、自分って怖いなと思う。まあアイドルに関して話すと長くなるので割愛するけど、つまり彼らは強い自我というものを求められていない。むしろ自我が見えなければ見えないほど、アイドルとしては完全になれる。良い例がビョンベッキョンさんです。不動のEXO人気ナンバーワンたる所以はそこにあるように思う。

難しいのがアーティストとの線引きである。アーティスト、すなわち芸術を紡ぐ人というのは、ある程度確固たる自我を持ち合わせていないとその道を築けないと思う。芸術はつまるところ、自分を震源とした世界を自己の視点で描いてみることで、自分をよく知っていないと、そしてそのなかで表現したい何かをわかっていないと為せない営みだからだ。(そういえばアリー・スター誕生にも似たようなセリフがあった。)
自我の表出を求められずコンセプトを上手に着ることが重要なアイドルと、自我の表出から表現を手繰っていくアーティスト。ただ音楽だとかダンスだとか歌だとか、表現の媒体は皮肉なほど似ている。そこで私はたまに、そのふたつのうちで相克に悩むアイドルを見る。バンタンがモロ、それ。
彼らの芸術的感性は驚くほど高い。KPOP界でもズバ抜けてるし、だからこそトップを走り続けられているんだろう。でもその感性はアイドルと指すよりも芸術家と呼んだ方が良いんじゃないかと思えるような鋭さをしている(感性に関してアイドル<アーティストと優劣をつけている訳ではなく、自我を押し殺して虚飾で自分を塗り固めること、それを大衆に好き勝手消費されることに抵抗感を示しているように見えるという意味で、適性がアーティスト寄りに感じるという意味)。
表現や自分たちの振る舞い方や、そういう苦悩に苛まれ、何度も試みた彼らが、国際的な舞台で悩める若者に歌うからこそ、曲は初めて鮮やかに色付くし、人々は励まされるのだと思う。
私はこれを見たとき眩しすぎて泣きそうになっちゃった。まあバンタンが好きかつ、こうして彼らの遍歴に関する予備知識をある程度備えてるから、っていう感動もあるだろうけど。それでも世界中に、この底抜けに明るく「ただ踊りたいだけなんだ」と叫ぶ『Permission to dance』を聴いて笑顔になれた人は大勢いると思う。差別や格差や偏見や利権や誹謗中傷、いろんな絶望に目を閉じたくなってしまいそうな暗澹とした世界にも、希望はあるんだなあって。闇で埋もれそうな希望の芽に一筋の光を差してあげるのが、今も昔も、こういう芸術だったんじゃないかって思いました。…長くない?(長いね)

ふたつめは一昨日くらいに観た『スウィング・キッズ』です!
今回特に言及したいのは、最後の最後、現代のジャクソンが訪韓して、実際にギスたちとダンスをしたステージを撫でるシーン。
あそこ、多分観てる人はジャクソンに感情移入して、走馬灯のようにそれまで映画で見せられてきた青春の記憶が溢れ出してくると思うんよね。私は溢れてきましたね。どうしようもない感情になってしまいました。
私が良いなと思った点は、映画の最後に現在の我々の時代に立ち返って、現在の我々の時間軸からそれまでの流れを俯瞰したところ。多分スウィングキッズを見るまでは、最後のシーンでガイドさんが「ここは〜したところです」と紹介される、掲示された年表のたった一文、コンパクトにまとめられた教科書の一コマ、それだけの接点で、朝鮮戦争捕虜の話なんてのは完結してしまっていたと思う。これはスウィングキッズに限らず全ての歴史映画や本に関して言えることで。それがこの映画に没入した2時間によって、実際に感触を持つリアルな記憶として、観た人間の身体に刻まれたんだと思う。
そういう意味でも、私は冒頭の「芸術は想起である」という考えに立ち返りたい。映画なんかの緻密な芸術表現が、時を経ても人間の胸に、過去人類が辿った歴史を想起させる。その作業を大事にしないといけないな、と。東京大空襲の展示を運営してる方(youtubeで見たけど名前がわからない)が、「戦争を知る世代が減るなかで、想像力を養うのが大事」という旨の話をされていたけれど、その想像力たるものを甘く見たら人間に未来はないとさえ思うのだ。そういう記憶の継承や、想起に挑戦し続けるような仕事ができたら良いなということも漠然とだけれど思う。

本とか映画の感想文とかADHDに関する記録?みたいなの投稿したいと思いつつ手が動かない。泣 
スウィング・キッズ個人的にはすごく好きな映画だったし、ドギョンスの演技力に想像以上に敬服したし、いろんな人に見てほしい。

おしまい