about my spring

思考の通過点 / 19歳

困難と一体のからだ


悩みがある。苦しみがある。壁にぶち当たる。人生のハードルを見つける。

人はそれを困難と言う。人生は困難の連続だという。乗り越えた先に新しい世界が見える。克服、克己、勝つ、パスする。



私は勝負が嫌いだった。嫌いというか、苦手なのだ。相容れなかった、なんとなく。よくわからない。なんでだろう、でも勝敗のつくものがいつも怖かった。目も前にすればたちまち、逃げ出したくなった。運動会で盛り上がったことなんて無かった。勝利に沸き立つみんなの気持ちを理解できなかった。頑張るが何かわからない。何を努力と呼ぶのかわからない。

欠落だと思う。太宰治人間失格といったのはこのことだと思う。欠落なのである。克服するちからの乏しさ。私にはいつもなにか足りていない。
足りていないのか?
わたしがそれ自身だとしたら?

対象化、っていう糸口を見つけた。人は困難にぶち当たると、それを分析して、対策して、案を練り直して、そういう試行錯誤を繰り返しながら、克服していくんだと思う。経験がないわけじゃない。その過程では困難が「対象化」されている。克己は自己を対象化することにより実現しうる。戦うためには敵を知らなくてはいけない。化粧するならまずは鏡を見ながら、自分の顔がどういった風貌なのか、目と鼻と口はどこにあるのか、そういうところから確認しなくてはいけない。

克服できないとはどういうことか?それがそれ自身なのである。「わたし」が「困難」なのである。正確に言えば、困難とは壁とは、私の外にあるものではなくて、また外的力によってもたらされるものではなくて、わたしの中に内在しているのである。対象化はできない。そうなると克服もできない。私の抱える困難に解決も克服も乗り越えるもない、一生付き合っていくしかないんじゃないか。わたしはもともと敗者の側にいて、勝利なんて知らないのである。だから勝利の喜びも楽しさもわからないし、実感として自分のなかに取り込むことはできないし、ずっと理解できないまま、ただそれを喜ぶ人の真似事を注意深くしてみるのである。どんな顔が喜びか、勝った時にどういう言葉をかけるのか、勝ちたいと思っている人にどういう励ましをしたらいいのか、そういうのは経験的に知っている。

たとえば盲目の人に、見えないのは努力不足だなんて言わないでしょう。両脚のない人が、とある階段を登れなかったとして、それを工夫が足りないからだとは言わないでしょう。
身体障害者は自分と分離できない自分自身の一部に、身体的な困難を内在している人のことで。じゃあ精神障害者とは?俗にいう「こころ」だけでは、説得力が無いのかもしれない。「脳」という実際的なものが関係していそうだと科学技術の発展によって理解され始めたのが認識の端緒になったろう、どちらにしても困難の内在する場所が、目に見えないところにあるのがそれである。

精神障害だなんて診断書、本当はあってもなくてもいいんだと思う。ただ対象化できないある困難が自分のなかに巣くっていることを、そう知ってもらえずに、責め立てられる恐怖さえ無ければいいのである。
でもそうだろうか?診断は解決とイコールじゃない。わたしは間違っていたのかもしれない。解決なんてハナから無い事を知るべきである。解決の無い、出口の無い、かなしくて深い困難に、わたしがわたしである限り苦しみ続けるのが、結局私の人生なのかもしれない。そういう人は一定数いるのである。私は知っている。克服なんてなくて、だって苦しいのはじぶんで。人生は我慢比べなのである。自分に我慢できなくなったとき、こういうこころの持ち主は、自ら命を絶つのかもしれない。自分を終わらせる、ことをするのかもしれない。何が苦しいわけでもない。太宰治は彼の困難を克服するのに、三十九年の時間を使った。

克服を諦めたらいいのである。この世で自死が忌まわしいとされるなら。生きるための諦めが必要である。それを強さと呼んだらいいのか。
完璧主義なのか?理想家なのか?本当にそれが原因なのだろうか。頭が良いから?ものがよく見えてしまうから?いろんなこえを、聞いてしまうから?繊細だから。そうじゃない。そうかもしれない。でもそうじゃない。
太宰は人に迷惑をかけ続けたわけだけれど、そしてそれを、自分でもわかって、ちゃんと苦しんでいたわけだけど。
義理とか共感とか、相互補完とか、そういうひと同士の組立てが、生物を生かし、社会を構成し、そういうおこないを手間取ることもなく、自然にできることを人間と呼ぶなら。克服と進歩の強さが人生を為すなら。いつだってそれをしないのは不適なのである。追放はここにきて悪しき圧力でなくなる。人間、それだけが自分を否定するとき、抵抗の意欲は、声は、はじめて__そしてやっと__押しやられる。非の矛先が自分へ向く。剥き出しの刃の先にはすでに何も無い。きっともう崖の底へ落ちた。
そのことだ。

いつだってその否は人間失格なのであり、人間を裏切るわたしやぼくは、死ぬしかないのである。
死んで初めて、克服と呼んでもらえるようなひとが、この世にもまだいるのである。