about my spring

思考の通過点 / 19歳

言葉について


1.


私は殴られよう。
あなたが世界の極に気づくまで。
絶望したあなたを救うまで。







2.


言葉はわたしを絶望させない。たとえいかなる齟齬があっても、越えられない概念認識の壁があっても、あなたの言う青と私の言う青が全く別のものだったとしても。
言葉には限界があるだろうか。限界?わたしは、無いと思う。表現できるところまでが限界だろうか。捨象された世界を見て、限界を悟るのか。否、わたしにはやはり、それでもやはり、限界は無いように思われる。

あなたがすべてを表現したいのなら別だけれど、そうではないはずだ。表現される必要のある世界は限られているはずだ。そもそも、言葉の先に世界なんて無いのだ。言葉は言葉で、そこで終わりだ。私たちは言葉で包含する必要のない世界も持っているはずだし、それが見えるなら、いいはずだ。

言葉は想起の装置であり(それは芸術)、人と人が協力して生きていくための信号であり(それは言語)、言葉の機能それ自体に大きな意味合いは無いように思う。言葉に限りがあるのではなくて、時間に限りがあるのである。話し合う時間が足りていないだけなのである。表現よりも、人は、社会を動かす方が大事なのだ。我々が生きるには、勿論それが正しい選択だ。


言葉だけでは物の形は変えられないけれど、力があれば変えられる。政治とはなんであろう。
政治家の語る言葉はどういう意味をもつのであろう。醜いかたちをした力を、言葉が綺麗にコーティングしてあげているのであればそれは言葉が可哀想ではないか。いや、可哀想というわけでもなくて、それが言葉の使命なのだから仕方ないか。
言葉は美しい。言葉で語られる世界はいつも美しく、なまぬるく、それは現実を綺麗に写しとっただけの、虚構かもしれない。鏡の中に映る世界は、案外秩序立っていて美的かもしれない。

言葉は何を決めるだろうか。そして実際には、何が決まっているだろうか。

言葉があっても戦争は起こる。講和条約は数年経つと破られ、そこに語られた言葉はいとも容易く踏み躙られ、軽んじられ、いつのまにか、力を守る実用的な武器になっている。でもそれは、言葉の無力さではなくて、力の傲慢さではないか。言葉が抑止力を持つ世界なら素敵だったと思う。イデアで目撃した幸福を、みんな言葉で思い出すことができたらいいのに、と思う。無理だろうか。みんなは忘れてしまっているだろうか。イデアでの暴力は地獄の顔をしていなかったか。ほんとうに、人はどうして暴力を振るうのかわからない。






3.


言葉をたいせつにしていては勝てない。でもわたしは言葉を裏切ることができない。だから、勝たなくてもいい。いつまでもこの世界の深淵の、濁り澱んだ汚穢の溜まり場の、そこ、底に落ちていけばいい。底では時間が滞っている。どうにもならなかったはずの均質な時間の流れが、実は滞る場所もあるのだ。力を持たぬ弱いひとたちの中にいて、私は初めて、呼吸ができたような気分になる。
社会の底辺に吸い込まれるひともあるのだ。夢から。憩いから。懐かしみから。慰めから、憧れから。
人間である人々が非人間と呼ぶ底辺の群れの中で、生きた心地がするのは何故だろうか。

人間失格」は、太宰治がわたしたちに与えてくれた、新しいわたしたちの名前なのだと思う。人間として生きてきた人々の中で、人間に相応しくないひとがいた。苦しくて、自我の置きどころも何もわからず、ただただ生まれてからずっと、自分の存在の是非を問うてきて、人間そのものに否定され、行き場の無かったひとたちに、太宰治は名前を与えたのだと思う。彼が賢いのは、芽が出たら摘まれるだけの非人間に、アイデンティティを作り出したことである。それほど自己愛が強かったとも言える。どのみちわたしは彼によって、生かされている。人間失格として生かされている。






4.


私はいつも絶望する。ここは言葉の叶う世界ではない。言葉はいつも裏切られる側にいて、力はどこにいても世界の勝者となっている。
ヒトと他の動物の最も大きな違いは言葉だと言うことがあるけれど、本当に言葉を使える人間であれば、その人はむしろ人間に生まれてきて不幸だったのではないか。人間は言葉を持っているけれど、何より力をつかうのだ。これは正直者が馬鹿を見る とは少し違う。人間の大多数は動物だから、結局動物に言葉を与えても、もっと凄惨な手順で弱肉強食ヒエラルキーを構築してしまうだけな気がする。
つまり、ヒエラルキーは当たり前で、それは秩序だ。残酷なのは言葉という美しいものを知っていることであり、言葉によって美しい世界を語れてしまうことだ。
人間も自然の一部としてはこの秩序に貫かれるはずだし、それを認めなくてはいけない。
それでも弱者が泣く生物は人間だけであり、弱者を泣かせているのがもし自然の秩序なのだとしたら、弱者の感じ得る痛みこそが、「人間」と「人間以外の自然」を隔てる正にその"人間性"ということにはならないだろうか。
単に言語体系が人間とそれ以外を区別するわけではない。動物性に従順な言葉もあるからだ。それよりも、人間を他の自然と真に画するのは、「痛みを語る言葉」かもしれない。

ヒエラルキーの頂点に立って楽しいだろうか?

力を持てずに人間から没落して、社会から転げ落ちると、むしろ人は自然に抗う重力の存在に気付けるかもしれない。






5.


弱者はどのみちすぐに死んでしまうので、そんなに躍起になって、殴らないでください。
だけど、抵抗できないひとびとの弱さが、あなたの生命の維持にはこれっぽっちも影響力を持たなかったとしても、あなたの本当の意味での尊厳には、傷を付けている可能性がある。
尊厳とは何を言うのだろうか。健康だろうか。文化だろうか。豊かさだろうか、誇りだろうか。
ぼろ布を纏うことしかできなかったとしても、本当の人としての尊厳は、そこだけでは語りえないのだと思う。
ひとつ注意しておくことは、人間は基本的に、自らの尊厳を自らで損なう人の方が多いのである。尊厳を損なうことから「人間」は始まるのかもしれない。それが人間で、それがこの世界で生きていくということで、そういうものなのかもしれない。
だけどそれに賛成も何も無い。
そういうことだと知ったので、あとどうするかは、私が決めなくてはいけない。