about my spring

思考の通過点 / 19歳

普遍的な平和の実現をめざして

 8月6日・9日は、日本の広島・長崎に原子爆弾が落とされ、ふたつの都市で「人工地獄」が生まれた日として、日本人の記憶に今も深い印象を残している。街に暮らしていた人々の約三分の一から二分の一が、閃光や熱線、爆風、放射能によって、その命を落とした。広島・長崎に落とされた原爆は、大量の人々が凄惨な死を遂げた悪夢のような現実として現代の歴史に悲劇的な記憶を刻み、人間の尊厳についての根源的・究極的な問いかけをもって我々の心を強く揺さぶると共に、それまでは希望であり恒久的な発展の象徴であった科学技術が、その究極的な大量殺傷能力をもって一転して人間の生を根底から脅かす凶器となることを示した出来事でもある。その一方で、原爆投下の正当性に対する考え方は、とくにその歴史に直接的に関与した日本、アメリカ、帝国日本の植民地であった東南アジア各国、とりわけ韓国の間でかなりの開きがある。当事国間での受け止め方の差を査定し、その溝を埋めていくことは、人類という一点で結ばれるこの世界のあらゆる人々が、ヒロシマナガサキをきっかけに、平和という概念を共有しトランスナショナルに連帯する可能性を有するという点で、原爆の記憶を普遍的な共苦の歴史にする布石としての有用性をもつだろう。
 1999年にN H K放送文化研究所が行った原爆投下に対する意識調査では、「アメリカが広島・長崎に原爆を投下したことは、その当時のアメリカとしては正しい選択だったと思いますか」という質問に、日本では8.2%のみが「正しかった」と回答したのに対して、韓国では60.5%、アメリカでは62.3%が「正しかった」と回答した。一方、「間違っていた」と回答したのは、日本で57.8%と半数以上を占めたのに対して、韓国では19.1%、アメリカでは25.7%と、日本とアメリカ・韓国の間でその正当性の認識にかなりの開きがあることがわかる。アメリカは第二次世界大戦の太平洋戦線において、日本の帝国主義的侵略・植民地支配・攻撃の相手を一手に担った経緯から、二発の原子爆弾が日本に壊滅的なダメージを与え、降伏の「決定打」となったというロジックをもって、原爆投下を少なくとも当時の状況を鑑みれば肯定的に捉えられる傾向が強い。原子爆弾ファシズムの暴力を食い止め太平洋戦争の早期終結に貢献したのであり、最終手段として投下はやむを得なかった、というのである。他方、韓国側では、原爆投下が日本の降伏、すなわち朝鮮半島の解放に繋がったという「原爆解放論」がいまだ根強い。その原爆観は、米国の論理の絶対性を始点として、1950年代の朝鮮戦争・戦後における悲劇の慢性化、1970年代からの技術的・文明論的観点からの原子力崇拝や「原爆待望論」の台頭、1980年代の一国平和主義的な「反戦反核」言説など、その国際状況や国内の情勢が強く影響しながら形成の途を辿ってきた。韓国におけるヒロシマナガサキというのは、その実態と一枚壁を隔たった距離感の中で、常にアメリカや北朝鮮との関係性に連動しつつ、自国の歴史的状況下で価値の変動をやむを得ない一つの出来事としてしか参照されなかったといえる。
 もちろん、韓国での原爆展の開催、原爆に関する書籍・日本作品の翻訳など、原爆解放論・原爆待望論を乗り越えた恒久的な平和価値の獲得へとつながる動きは起こっている。しかし、被曝体験を如実に表現しようとすれば、その描写は本来加害者である日本の被害者的側面だけを強調しているとする論調が、表現の行く手を阻む。被曝体験の語りは、被害/加害の二項対立のナショナルヒストリーに飲み込まれることがほとんど不可避なのである。
 一方、日本における「被曝体験」は、日本の歴史が孕む加害性と被害性の歪みを形成することになる。それは現在の歴史認識にも地続きの問題であり、とくに朝鮮人被爆者の存在が顕在化したとき、日本側の原爆認識における錯誤が浮かび上がる。朝鮮人被爆者は被爆者総数の約10分の1ともいわれるが、「原爆の図」第14部の「からす」が象徴するように、朝鮮人被爆地に累積する死体においても差別された。ともに同じ爆弾を被っていながら、戦後国境によって補償は寸断され、記憶の共有もままならなかった。日本が「唯一の被爆国」と自称するとき、そこには共苦の可能性をもつ日本人でない被爆者の捨象があることを顧みなければならない。
 このように、日本とアメリカおよび韓国の間には、原爆の捉え方をめぐっていまだ大きな溝がある。それはねじれた加害/被害関係が生み出す複雑なポストコロニアル的課題であり、その溝は単純な経験の有無を超えた戦後処理の欠陥や現実と論理の齟齬、絡み合った歴史による軋轢が生んでいる。しかし、ヒロシマナガサキから現代に残された我々が望むことのできる普遍的な平和は、互いの立場の相違を見落とし、意見の衝突に終始していては決して実現し得ない。あらゆる葛藤や歪み、軋轢を抱えながらも日韓が連帯するためには、ヒロシマナガサキが持つ悲痛さや、それが投げかける「人間の尊厳とはなにか」という根源的な問いに真っ向から向かい合うことが重要ではないか。そのためには、先にも述べた両者の課題を認識し、克服する努力が必要だが、それには芸術作品が大きな効力を発すると考えられる。というのも、ここで見出されているのは連帯を「共苦」によって実現することの可能性なのであり、共苦とは抽象的な概念の押し付けや上意下達の啓蒙によってではなく、それぞれが自発的に体験する究極的に個人的な共感、心の単位での「痛み」の集積によって、帯状につながっていくさまを指すはずだからである。映画でも文学でも漫画でもあるいは美術・展示でも、ストーリーテリングのなかで我々は真に他者の痛みに触れることができ、具体的に対等な人間として目線を交わすことができる。地道ではあるが、文化のリスペクトから市民の交流が活性化し、より個人的なかかわりのうちに日韓関係と互いの歴史を捉えることができるようになれば、目に見えぬ連帯の礎も築かれることになるだろう。
武器の強さではなく、絶対的な降伏力ではなく、その現実的な恐ろしさ、壊滅の本当の意味を知る方法が、ヒロシマ/ナガサキにはある。そして核兵器というものの本当の意味を、力への崇拝が蔓延りつつある現存の世界は、もっとよく知る必要があり、これはまさに喫緊の問題であろう。いま、我々が78年前の8月に起きたヒロシマ/ナガサキのあの日を忘れ、力の前にひれ伏せば、ついに見るのはあの日の再来であろう。このような状況では、当然のことながら、やはり原爆の痛みを身をもって知る日本が主体となって、平和への呼びかけや歴史認識の再考を行っていく責任がある。
ひとつ言えるのは、戦後の思想体験の断絶があったとしても、細々ではありながら、互いの痛みに寄り添う動きはたしかに存在してきたということである。日韓がヒロシマナガサキの記憶を共にし、自己の胸中にリアルな痛みを経験することができたとき、連帯した我々が、その痛みの語りをもって、米国ひいては世界に核の犯罪性・決定的な非人道性を強烈に訴えることも可能であろう。

参考文献
玄武岩(2016)『「反日」と「嫌韓」の同時代史−ナショナリズムの境界を越えて』勉誠出版



前期の授業で書いた課題レポート
教授に褒められて嬉しかった。思想が合致していたから、というだけだけれども。 
レポートというより、普通にブログかどっかで書きそうな内容だと思ったのであげた。