about my spring

思考の通過点 / 20歳

豊かさ

2024年4月頭のメモ

高校の頃すごく仲の良かった友達がいた。その子と話すと面白くて楽しくてとっても笑えて、その子にとって私は何人かいる友達のうちの一人だったかもしれないけど、私にとっては彼女は貴重な友達の一人だった。

私はこういうふうに文章を感傷的にするのは好きじゃない。

久々にその人と遊んだ。かなり変わっていた。私も変わったと思うし、実はその人はたいして変わってないかもしれない。
ちょっとずつお互いが形を変えれば簡単に合わなくなる。
大学に入ってしばらく連絡をとってなかったけど、いつか旅行に行こうとはずっと言っていた。お互い一年の浪人を経て2年越しにがっつり遊ぶ機会だった。

その子は学費が高い私立医学部として常に上位3位以内には名前が上がるくらいの大学に進学した。つまり日本でトップレベルのお金持ち大学で、やっぱり入って来る子の経済的豊かさはレベルが違うらしい。「そんな暮らしをしてる人がほんとにいるんだ」って思うような同学の子の話を何個も聞かされた。(私が積極的に聞き出したのである。)
大学に入って、みんなちょっとずつ高校時代とは変わったな、と思うことがあるけど、その子も環境の変化を受けているみたいだった。香水とか車とか服とか遊びとか一人暮らし事情とか、会話に出てくる話題の枝葉末節から価値観のずれを感じた。

その子は大学に入って毎日のように遊んでいるみたいで、麻雀にダーツにビリヤードにパチスロにクラブにマリンスポーツに、大学生のしうる娯楽をことごとくやりこんでいる。

バイト先の病院で勝手に非常階段に入り、いただいた手術用手袋を意味もなく頭に被り破壊して笑う(怒られた)、ゴミ出し用に屋外へ出された段ボールの中に勝手に物を捨てる(あのままでは業者はとても段ボールを回収できないだろう)、深夜も深夜、隣の部屋の住人に騒音で迷惑をかけていても、注意されても反省もせず、むしろ怒らせたことをみんなで面白がっている、禁止されているのに学校へ車で登校して近くの役場やコンビニの駐車場に長時間駐車する(これも注意されて禁止されたらしい)、ご飯を当たり前に残す…

「世のお金持ちっていうのは、大体こんな感じなんだろうな」というのを、その人からありありと感じた。
要領が良くて、賢くて、現実主義的で、遊びと人間関係で人生を豊かにする術を知っている。レトロなレコードで雰囲気の良い音楽を聴くのが好き、そういったおしゃれな空間を嗜むことができる。仕事は、社会的地位と高収入を得るためのものそれ以上でもそれ以下でもない。大学は研究するための場所ではなく、中高じゃ出会えなかったような種類の人たちと関係を持ち、コミュニケーション能力を伸ばしたりまったく新鮮なアクティビティを体験したりするための場所。料理の付け合わせは食事中に食べるものであって、メインディッシュを食べ終えた時点でそれが残っていればそのままにする、満足した分だけ食べていらない分は残すのが普通。遊びも(単位が取れる分の)勉強も部活動も読書も全て卒なくこなして、「時間がなくてできない」とかがない。時間を作るのがうまい。

(比べるのも愚かなことだと思うけれど、)一方の私は、要領が悪くて複雑なことを考えると頭が混乱して、妄想や空想をするのが好きで現実よりも夢の中の世界に生きたいと思ってる。勝敗がつく勝負や賭け事になぜだか夢中になれなくて、麻雀もビリヤードもダーツも本当の楽しさはよくわからない。レコードで聴く音楽の良さや嗜み方も今のところあまりわからなくて、それよりも一言でなぜか胸を突かれるような素朴で切実な歌が好き。人間関係はとても苦手、表面的なふざけとかただ騒いでるだけ・突飛な言動をしてるだけみたいなコミュニケーションはあまり楽しめなくて、ウィットに富んだ冗談やブラックジョークが面白い。どんどん現実にはない世界線の話に入り込んだり人の内面や物事の関係性について分析したりするのが楽しい。仕事にやりがいとか大義を求めている。大学は大人であり子供である大学生が飲んで遊んで人生の夏休みを謳歌する場所ではなくて、研究や学業のための場所だと思っていたし、ご飯は美味しければ余すことなく平らげてしまう。残すのは勿体無いし、罪悪感があって多少お腹がいっぱいでも全部食べようとする。理想はいっぱいあるのに、結局不器用で怠惰で色々手一杯になり、やりたいことの半分もできていない気がする。

自分が明らかに経済的豊かさを得る人種と相反している特徴をもっている。それも多分苦しい。



悩ましいのは、多分どちらも間違いではないことだ。
思索、想像、空想、理想、そういうものが人間の本質だと言う人もいる。
一方で、人生をうまく生きていくためには現実主義が必要だ。不正義だとしても合理的で実利的で即断的な反応が、人生を前に上に導いてくれる。それどころか、人生というものは本来そういうために用意されているんじゃないか、とすら思う。悩むためではなくて。

私の頭は絡まりやすい。様々なことを同時に考えて思考が絡まる。頭の良い人、とくに理系科目が得意な人は必要な事柄とそうでない事柄を分けて、過不足ない手順を踏んで問題を解きほぐすのが得意だ。私はそれが不得意だ。そういう点で頭が良い人に敵わないと思う。これは生来的な思考能力と幼少期に獲得した思考方法がものを言うんじゃないかと直観している。私にはそれがうまく身についていないな、とひしひし感じる。

思考が絡まり、混乱すると悩みが生まれる。無駄が生まれる。
私は不足から生まれた悩みに身や関心を費やして生きている。
不足していなければそれは考えずに済んだのだ。
人間の本質は「無駄」だと思っても、私がそうと思ったとしても、本当はそうじゃないかもしれない。

人間の本質が苦悩や病いだと思うことは、単に自分が不足のためにうまく生きれないことを受け入れないための正当化でしかなくて、私が本当に重要だと思っている本質というものは、不足していない彼らが追い求めている影のない光かもしれない。
そうしたら私が本当にときめき、憧憬をいだいていた本質っていったいなんだったんだろう。すべて間違いだったのかもしれない、あるいはこうして考えることはすべて余計なことだったのかもしれない。

書いているうちに雲を掴むように考えていたことがわからなくなってしまった。
ここに書いてあることは意味がわからない。

(ここから先は強烈な自己批判に陥る)




2024/05/08
(ブログに上げるための)追記

優しさを持つことが、弱きに心を割くことが、実用的でないものごとに囚われることが、本当にうまい生き方ではないのかもしれない、と思ったとき。私が信じていた正義に疑いが投げられたとき、私はしばらく動揺したし、悩んだ。どうすればいいかわからなかった。

感謝しよう。でもその悩みを相談する相手がいた。サークルの仲間たち。例会後の飲みで、前後の流れは失念したけれど一連の自分の疑いを披瀝した。彼らがくれた答えは、いくつかの有意義な視点を含んでいた。
(私は「相談する」という行為がとても苦手で、というのも、自分の抱える疑問や疑惑を伝えたところで、それに対して有意義な回答をよこしてくれる人なんて、ほとんど存在しないからである。だけど、今回の相談は私の期待に適う有難い機会だった。そうであることをなんとなく直観していたからこそ、私は彼らに打ち明けられたのだと思う。)


現部長の話

たしかに私の友達のような人間もいる。でも、我々のような人間(役に立つかどうかわからない物事を考えなきゃすまないような人間)がいるから、そういう人たち(実利的で、社会的地位や経済的豊かさ、楽しさが人生のプライオリティな人たち)は生きていける。実は、我々の存在なくして、彼らの幸せは存在し得ないのだ。


医学部の変わり者の話

いつかそういう人たちも気付く時が来る。
人間的なものがつなぐ何かがあることに気付き、どこかで必ず葛藤しなければならない時がくる。
「愚かでいるより、賢くいて苦しみながら苦しみながら死にたい」(すごいなぁ、と思った)


前部長の話

賢さとは、自分を幸せにするためのものではなくとなりの人を幸せにすること。
例えば、学歴厨の思考(「東大以外大学じゃない」)で苦しむのは、その人ではなくて”東大に行けなかった人”。

「満足な愚者であるより、不満足なソクラテスであれ」
-J・S・ミル



苦しむ人に手を差し伸べること
悩む人を見捨てないこと
置いて行かれた人を私は置いていかないこと
それが本当の優しさであり、賢さではないか。

「優しい花になりなさい。」
私の名前に込められた思いだ。

”どんなに華麗で人を感動させられるような美しい花よりも、
道端に小さく咲き ほとんどの人が気付かず通り過ぎてしまう地味な花でも、気付いた誰かを慰め勇気付けられるような、そんな優しい花になりなさい”

私は優しい花になるために、やはり生きていかないといけない、と思った。