about my spring

思考の通過点 / 19歳

現在進行形で大学受験失敗してる高校生による不毛な叫び

学校やめたい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

まじでさ、めちゃくちゃ学校やめたい。超やめたい。はあ、やめたいなあ。もうさ、土になりたい。なんで人間に生まれてきちゃったんだろう。いやいいんだけど、別にさ。生まれてきてしまったもんは仕方ないやん。
脳直で打ってるし下書きもなんもしてないからツイートで呟いとけよって話なんだけどたまにはこんなクソッタレの投稿もあってもいいかなって。

模試受けないのも毎日遅刻してるのとかもマジで終わってると思う。普通こんな怠惰な高校生いない。今日担任にこのままじゃ単位が危ないって言われた。英語の単位がまずいらしい。え、もう、学校やめたい。この思考回路になるのがもう人間おしまいすぎてやばい。自分、なんで生きてんの?もう土に還りなよ。私もできることなら土になりたい。その方がみんなにとってもいいと思う。担任の貴重な時間削ってまで単位の計算させてるのも大して勉強してなくてテキトーに受けてるだけの模試に一万近く親に払わせてんのもマジで申し訳ないし。今日先生が自分に厳しくって言ってた。私は自律性というものが本当にご臨終になっている。自分に厳しくってなに?具体的にどうやったらできんの?どういう精神状況でみんな日々をやり過ごしてるの?毎日そんな堅実に生きてるの?わからない。私がおかしいのか、何がダメなのか、わからない。友達の体に意識だけ乗り移って1週間くらい過ごしてみたい。みんながどういうふうに身体を動かしてるのか知りたい。


私は精神科でADHDの診断をされていて、既に薬も処方されてて、毎週クソ高い医療費(親金で)払いながら飲んでる。なんのために?普通に生きたくて。自分が信頼できなかった。何もできない自分が。みんなはできるかできないかじゃなくて、やるかやらないかだって言う。でも私にはできるかできないかだった。何も思い通りにいかない。自分の構想がダメなのか、それとも構想は普通だけど身体の操作方法がダメなのか、操作方法じゃなくてそもそもの操縦機能が故障してるのか。
ADHDという診断は、端的にいえば操縦機能の欠陥に原因を見出す。
努力不足だといえば構想の不備だし、甘えと呼べば操作方法の過失である。


ADHDの診断をもらったけど半信半疑だった。そもそもこういう診断は保身とか精神安定剤くらいにしかならないというのは今でも思ってる。そもそも今の時代症状に病名をつければなんだって病気になる。人間の行為思考を神経が決定してるなら私が私であなたがあなたであることだってあくまで物質的な反射の連続の産物でしかなくて、そしたら責任はどこに依拠するのか?だから神経科学と倫理学の交錯地点を悩める当事者として知りたいと思った。自由意志と決定論、責任の場所、違うこういう話をしたいんじゃなくて、難しい話をしてるフリをしたいんじゃなくて、ただ私はわからない。


精神科の先生が、甘えじゃないと言っていた。そこまで自分を甘やかせるのが才能だって。普通の人は自分のことをそこまで甘やかせないからって。少しして理解した。つまり過程を辿るんじゃなくて、今こうして精神科医にかかってること、甘えか否かでここまで悩んでいること、この現状、この結果こそ全てだと言いたいらしい。なるほどこれはわかりやすかった。そして辛く思っている当事者としてはかなり救われる言葉だった。私は私が普通じゃないのか、それとも普通であることを怠っているだけなのか、それでずっとぐるぐる悩んで考えていたけれど、もし私が普通だったとしたら、そこまで悩まないはずだって。
(ここでの「普通」っていうのは、健常者=普通、発達障害=普通じゃない、と言っているわけじゃなくて、もっと個人的な、私が私以外の人間たちとの間に感じる差異だとか、乖離みたいなものを普通/普通の否定(つまり普通じゃない)という言い方で表現しているだけです。決して差別的な意味を含んでいるわけじゃなくあくまで私の生きていかなきゃいけない小さな世界と狭窄な価値観を考慮した上で自分の納得できるラインとして行った線引きです。それも不明瞭で不確実で曖昧模糊な区分けです)



結局上手く生きるってなんだろう。
精神状態が快方に向かって、最近色々冷静に考えられるようになって(るのか知らんけど)出した結論は、私が今懶惰に嘆きながらも退嬰に留まったままなのは、環境が自分の特性と上手く作用していないからだということだった。高校卒業した後一年間、一人で何にも縛られず自分がどういう環境なら頑張っていけるのか模索するつもりだった(というか今もそのつもりだけど)。とりあえず卒業くらいしとこうと思ってた。大学受験っていうレースから離脱(一時脱落?)したことで真っ暗闇だった視界が開けたし、精神も安定した。でも最近願書とか、現実的な手続きの話になってきて、また今日メンタルが逆戻りした。棄権しようと審判に申し出たら、却下されてまたレーンの上に押し戻された気分。まあでもさ、言ってないのが悪いわ。担任とか親にちゃんと自分の意向(一年間自分探しの旅に出たいってこと)を説明してないのがダメだから、言うべきだし、近いうちにきっと言うんだけど、口頭での説明が苦手すぎて多分言いたいことの五分の一くらいしか話せないと思うし、そういう説明下手な自分が嫌で、落ち込んで、伝わらないのが悲しくて、理解してもらえないことに孤独感を感じて、なんで自分こんな人間なんだろうどうしていつもこうなんだろうああ生きづらい生きづらい生きづらい…(この作業をn回繰り返す)になるんよね。マジで、生きるの向いてない。なんでこんな人間なんd(以下略)


学校に行く意味がないと思ってた。欠席が続いて、このまま行かなくなってフェードアウトするかもしれないと思った時もあった。正直それでもよかったけど、それでもいいとか思えるのは私だけで、周りはそうじゃない。
学校に行く意味を考えた。積極的理由ではないけど、考えついたのは以下の三つだった。
・・・・・
①友達と話すのが楽しい
②登校時と授業中はマジで一生憂鬱だしずっと学校辞めたいしか考えてないけど、放課後は授業中に溜め込んだストレスとそこからぐつぐつ煮え立った好奇心(ストレスを感じるとそれが生成される理由を考える過程で新たな疑問や興味が生まれたりする)で思考が活性化される
高卒認定試験受けるのダルそう
・・・・・
人間失格と一緒の棺に入れて火葬してくださいとかマジの目で言ってた頃は、人間不信にまで陥っていたので①はむしろマイナスでしかなかった(友達に会うの怖かった)けど、今は治ったから正当な理由になり得る。やっぱ一人で閉じ籠るよりはたまに喋って笑顔になった方が、医学的にも良いって聞くし退学したら友達とよそよそしくなっちゃうかもしれんし。
②は欠席した日結局ダラダラ過ごすことが多かったから、まだ学校行った方がマシかもって考えだけど、正直学校辞めたらそれが危機感とか「流石にやらないとまずい」みたいな意識に繋がりそうな気もする(あと今は薬のおかげで読書できたり、ダラダラしすぎなくなったりしてる)から実際どうなんだろう。やっぱり学校行ってる時間つまらなすぎて無駄やん・・・・と思うし行くだけで体力と時間が奪われるし、学校の時間に合わせて生活習慣をコントロールするのができなすぎるのにやらなきゃいけないから今不毛な体力とメンタルを削ってる感じしかしてない。
これが高二だったら確実に学校辞めてたけどゆうてあと一ヶ月の我慢だし、ってことでの③、以上。



ちゃんとひとつの記事にしてまとめるつもりだったけど殴り書き始めちゃったし、ここで今考えてる今後の指針をざっくりと記そうと思う。
前述もしたけど、高三は、様々な要因により普通の大学受験勉強は大コケ&17年の人生の中で一番自分について、世界について考え込んだ一年だった。で、現状、思考や挑戦の障害になるもの(学校)がデカすぎて、まだ今年一年で浮かび上がった自分の弱点・課題、自分の生き方の哲学について、全然考え切れていない感覚がすごくある。

〈とりあえず受かりそうな大学進学して、大学生になってから色々考えたら?〉

もうこの際恥を忍ばずに言ってしまうと、私は早慶以下の私立大学なら行かない方がマシだと思ってる。(いやお前の成績と勉強態度で何言ってんの?っていうツッコミは私が一番思ってるから許してほしい。こういうマジで頭おかしい思想を中身も伴わない状態で抱いてしまう自分のヤバさに悩んでるみたいなとこあるからむしろ助けてほしい。)
理由は、周りの人間のレベルがある程度低くなるのは避けられないから、あと高い学費払ってまで行く魅力を感じないからetc。それに、大学っていう新たなコミュニティに合流することが、私の哲学を探る上で今のところまだ邪魔になりそうだと思う。どこにも属さない自由な身体と(正確に言えば現代社会で生きている以上何かしらの共同体には属していることになるけれど)、野放図に広がる空間と選択肢、融通の効く一年という期間と、反対にそれらから生じる焦燥や危機感・・・・いろんなもので雁字搦めに縛られて、今私の体内では無防備で粗野なエネルギーの塊が燻っているみたいな状態だけれど、完全に自己責任の世界で自分がそれをどこまで引き出して、上手く扱って、解していけるかに興味がある。典型的な大学受験プランをこなそうとして大コケした完璧主義ADHDとしては、ここで大学受験に負けを認めて妥協するよりは、自分が勝てるやり方を見つけて、乗り越えたいって思う。少なくともそう思う野心はある。その作業をすることで、自分がこの一年で感じたたくさんの違和感、社会との足並みの不揃い感、そういうのをより明確に理解したい。そのためにはある日突然辺境の地で自給自足生活を始めるかもしれないし、寺に入って修行僧(尼?)になるかもしれない。ただ、これ(自給自足とか尼とか)については今のところ保身で言っているに過ぎない。

〈結局また怠惰な自分に甘んじて、口だけで終わるんじゃないの?〉

正直これが一番の懸念で、自分に実績という点での信頼性がマジで皆無なので、もし今と何も変わらんくて結局自分はただの怠惰な人間のクズでした、だったらどうしようって思う。すごく怖い。でもここでは、そうなることを防ぐために、そもそも私はなぜ「一年間自分探しの旅をする」と考えついたのかを順を追って記そうと思う。この世の全てに対して信用を欠いていて、目の前には無数の選択肢で埋め尽くされた暗がりしか広がっていなくて、五里霧中の思考、無秩序で混沌に支配された決定能力、そんなどうしようもなく不安定な現状の自分でさえ、これは永遠の真理として自己の中に据えておけるとほぼ確信していることがあるから。それをこうして書き留めておくことによって、未来の私が同じように道に迷いかけたとき、そっと腕を引いてあげられるひとつの力や道標にでもなったらいい。


もったいぶって語ってしまったけれど、単刀直入に私の中の哲学(もちろんそれはまだ未知で、未開の地、一生かけて探っていくような終わりの見えない精神活動にさえ等しい)を貫く現時点での絶対的な真理は「より良く生きる」である。

まあ単純な話だけど。私は時に怠惰に身を任せてしまうし、いっそ退廃に身を投じようと思い切ることだってあるけれど、結局そこでいつも踏みとどまったり、そもそもこうやって「なぜ自分は普通になれないのか」「上手く生きられないのか」みたいな悩み方をしたりするのは、大大大前提として自分が「より良く生きたい」と思うからである。不安定な中でもこれは一生変わらない、おそらく。なんで空や太陽や波の音、夕日が海へ溶けていく様に心を奪われるのか、どうして目の奥が綺麗な色をしてる友達とできれば長く一緒にいたいと思うのか、寒そうな指先を温めてあげたくなるのは、きれいな音楽を作る彼と心を半分こにしたくなる、ちっぽけだけどそれがすべての取るに足りない小さな世界、心の震えを分け合いたくなる、そこに愛があると信じたくなる、信仰、そういうのは究極的な意味で自分の中にある魂を、なるべく優しくて、穏やかでそして暖かい、美しい場所に近付けておきたい・・・つまり自分の魂が「(あちらが)より良い」と共鳴する声を聞かずにはいられない衝動、そういう真理に裏付けされた動きだといえる。正直もう、この気付きだけで十分、(退廃的方向に振り切りやすい)私の慰めや自己啓発になりうるのである。一時期私はこのまま自分の懶惰や不安定な精神が最終的に自分自身を滅ぼすことにしかならないんじゃないかと思って本当に文字通り目の前が真っ暗になっていたけれど、自分のそういう自己破壊的特性よりもさらに高次元で自身の生命を向上させたい欲求が存在していることを解して、めっちゃ安心した。
結局何が言いたいかよくわかんなくなってきたんだけど、結局私はどう転んでも自分の理想に近づきたい衝動に従って動こうとするわけで、そのことさえ見失わなければ何かまた途方もなく強固な壁にぶち当たったときでも選べる中で最善の打開策を模索するのだと思う。だから、最も恐れていた自己破壊の予感に怯えて萎縮する必要は少なくとも今はない。


苦難を「楽しい」って思えれば、自己破壊なんて考えることもなくなると思う。そこで第二の真理、私は常に学び続けることが使命である。

この一年で、マジで前代未聞の気鬱に陥ったし、めっちゃぐるぐる考え事してたけど、結局行き着いたのは「学ぶことで自己探求の道が開かれる」ということだった。
例えば私は人為(あるいは相対性)と自然(あるいは絶対性)の観念について強い憧憬を抱いていることがこの一年でより明確になった(※1)。以前からその布石的な経験なんかはあったけど、きちんと二項対立として捉えるようになったのは今年のわりと大きな実りであるといえる。この二つの真理、こんなんもう紀元前から名だたる哲学者たちが人生かけて追い求めてるようなテーマだけど、やっぱり私が「より良く生きる」ためにはこの命題(人為・人間とは何か、自然とは何か)に自力でアクセスしてみる必要があった。私の生きづらさとか、生きる意味、どうやって生きるのが良いのか、そういう疑問や葛藤は突き詰めて考えてみればこの二つの概念が精神的あるいは物質的に(もっといえば社会的にも)競り合う狭間での相克から生じているように思えたからだ。あとは単純に興味の問題もある。なんで綺麗に感じるのか、美的感覚ってなんだろう?みたいなのから、宇宙はなぜ誕生したのか?数字とはなんだろう?永遠とは時間とは空間とは、そういうのまでアホみたいに考えてるから(マジでアホ、一生わからん)、そういう興味をちょっとでも満たしたらそれはささやかな幸福感につながって、それはつまり自分の人生を「より良く生きて」いることになるんじゃない?あと私が人生で一番幸福を感じる瞬間が、美しいものを享受した時で、私にとっての”美しい”の出発点は必ず自然(これは美しさの種類や発生源と同様に、美しさを受け取る自分側の受容地点での精神の衰微な揺らぎみたいなものについても”自然”に則したものであるといえる。もっと厳密にいえば発生源とはどちらの側にあるのかも議論の余地があるけれどマジで哲学になっちゃうのでここでは言及を控える)

まずこういう議題について、先代の知識の蓄積や成果を受け取るために勉強が必要。そして自分個人の問題に還元させる、さらには将来的展望や予見を持つためにも一生をかけた学びがきっと必要で、結局これから先私がどういう進路を辿りどういう人生を選択したとしても、私が私である限り、この忙しない上に過敏な脳みその持ち主でいる限り、知る・感じる・考えるそれらの積極的行為は終着地点のない使命的行いとしてあるのだと思う。私の生きる意味(というか死なない限り「より良く生きるため」にやらざるを得ないこと)は今のところ「自分が何者であるか知る」「自分がどうしたらもうすこし上手く生きれるのか方法を探る」ことであり、それと知的探求(または感性的体験)は三位一体なのではないかと思う。



話が本当に二転三転としすぎてるんだけど最後にピーター・シンガーの話だけする。最近哲学に軽くハマってそこで見つけた、現代哲学における最も著名な哲学者、倫理学者の一人です。立場としては功利主義をとっていて動物の権利、貧困問題の解決などに関して一石を投じており………とまあこうやって偉そうに書いてるけどまだシンガーの著作も届いてなくて(Amazon、待ってるよ。)彼自身の主張はネットでちょっと浚った程度なので、また本とか動画とか記事とか見てブログにまとめる日が来ると思う。(そう信じる)


なぜ私が彼の名前を挙げてわざわざこの記事でネタにしようと思ったかというと、彼の思想が私の悩みにクリティカルヒットで、聞いたとき本当に目から鱗だったから。

シンガーは問う。
「あなたは道を歩いていて、池で子供が溺れているのを見つけたとする。周囲には自分以外、その子供を見ている人も、助けようとする人もいない。あなたはきっとその子供を助けるだろう。たとえそのとき着ていた高級な服に汚れがつくとわかっていても、このあとすぐどこかに行く予定が迫っていたとしても。」
「でも多くの人は、必要のないもの、贅沢品やペットボトル、そういったものにお金を使う。そのお金で、マラリヤで死にかけの貧困の子供達が多数救えるにも関わらず。この二つに倫理的な違いはあるだろうか?」

TED Talksでシンガーがこんなことを言っていたのが印象深い。以下引用。

Does that remind you of a consumer lifestyle, where you work hard to get money, you spend that money on consumer goods which you hope you'll enjoy using?But then the money's gone, and you have to work hard to get more, spend more, and to maintain the same level of happiness, it's kind of a hedonic treadmill. You never get off, and never really feel satisfied. Becoming an effective altruist gives you that meaning and fulfillment. It enables you to have a solid basis for self-esteem on which you can feel your life was really worth living.

youtu.be


シンガーの示唆する決して満たされない欲望、この世界的に見れば富裕といえる日本に生きて、心当たりのある人も多いのではないか。物欲、承認欲求、個人的な話をすれば食欲に関しても、私は食べても食べても満足できない(正確に言うと「食べたいのに、食べたいと思っていたはずのものを食べると出費と満腹感で逆に気分が悪くなる」)という気味の悪いジレンマに苛まれていた。SNSが当たり前に日常の一部と化している現代の若者の中で、承認欲求たるものは異常なほど増幅しているように思う。私も一時期、というか今に至っても、そういう”決して満たされない欲望”が生み出す不毛な疲弊から完全には己を断ち切れていない。
これはさっきの自然と人為の話にも還元できる倫理だと思うけれど、結局私の精神を摩耗し、疲弊させてきたものというのはいつもこういった人為、即ち人間の生み出した社会構造(競争社会、優生思想、戦争、貧困、差別格差偏見誹謗中傷………etc.)だとか物理的要素(都会に聳え立つ灰色のビル、自動車の排気ガス、絶え間ない走行音、アスファルトに固められた地面、都心の喧騒、溢れ返った駅構内のゴミ箱………etc.)、あるいはそこから副次的に発生する人間の悪意だった。
功利主義の理解はまだまだ浅く、これが本当に自分の適切な指針として立脚してくれるものであるかも定かではない。それに関してはこれからまた調べたり、実践したりする中で吟味していくとして、ひとまず私の言語化できない違和感、茫漠たる懊悩を「不毛である」と一刀両断してくれたその声を、こうして得ることができたことに確かな意味があったと思う。

あと、思ったのは、私みたいな思考がバカみたいに忙しい上にとりとめのないそれがそこら中に散在して整理できなくなるポンコツとか、あとはその時々によって言動がコロコロ変化してしまう一貫性皆無な人間(※2)にとっては、「〇〇主義」みたいな、つまり絶対の真理信念を前提に体系化した規範原則を遵守する態度を取るというのは、判断や行為に一貫性を持つという目的(私にとってそれは「生きやすくするための手段」と同義)のもとでは非常に効果的なんじゃないかということ。これは本当にデカい。何に対しても慎重に考え込む癖がついてしまってから、どんな判断にも鈍重な”不確実性の靄”のようなものがつきまとうようになって、自分の一貫性の無さ(感覚で動いたり、思考が忙しかったり、自律性の無さだったり…による)から来る自己不信も災いして、本当に身動きが取れなくなった。それがもしこういう手立てによって解決できるならそれこそ目から鱗の発見である。



さて、本当になんの話をしてるんだかわからなくなったけど、とりあえず最近燻ってた考えの断片くらいは吐き出せた気がする。乱文乱筆、語彙の欠乏もひどくてとても人に読ませられるような記事じゃなくなったけど(毎回のことながら)思考の通過点を言語化するという当ブログの目的はそれなりに果たしているんじゃないかと思う。知らんけど。こんな必死に書いててさ、数年後には考えや身分もまた刷新されて、随分頑張って生きてたんだな自分、くらいのノリで振り返れるようになればいいよね…。なるのかな。日々将来が不安で、そのことを考えると泣きそうになるけど、明日の英語の単位がやばいので、とりあえず朝早く起きられるように頑張ろ(現在時刻 AM3:10)(死亡フラグ

もう完徹しよかな…




・・・・・・

注(クソどうでもいい内容だけどかつて書いた文章を少しでも消化したいから、一応載せる)

※1 自然と人為について、たしか自分の中で「悩みの本質に据わってたのはこれだったのか」と気付きを得たのは、日々の思索からではなく小説(らしきもの)を書いている過程だった(!)多分夏休みとかに、何も考えずにただなんもしないよりはマシくらいな気持ちで書いてたやつを、後で読み返してそういう傾向になっていることに気付いた。
結局小説(らしきもの)は全く書き切らなかったんだけど、その描写をちょっと抜粋する。(なんかこのブログ多分ここまで読む人いないだろうなという開き直りがあって、マジで羞恥とか湧かないわ。完全に日記の気分で書いてる)



雪が似合う人だった。その人はいつも雪の中をやってきた。でも今考えてみれば、それは逆だったのかもしれない。きっと彼が雪を連れてきたんだろう。彼の背には終わらない冬があって、凍てついた空気が張り込めて、それはいつも孤独と共にいた。
彼は僕にとっての救世主かもしれなかったし、はたまた僕が彼にとっての救世主だったのかもしれない。とにかく僕らは、互いに互いの存在を知り合う、そのことだけが必要だったのだ。
君はそこにいる。僕はここにいる。それだけがすべてで、ただひとつの救いだった。

・・・・・・・

目を開けたら、真っ白な世界が広がっていた。
それでもここが、自分の生きていた世界とはちがう何かであることは、直感的に理解できた。一面雪に覆われた平原と、平原をたどった先に忽然と広がり始める深い針葉樹林。ある境界線をまっすぐに引かれて、その線からこちら側は平原、向こう側は木々の住処、そうやって決められているみたいに、ある一直線から唐突に森林が始まる。なだらかな平野の稜線や、高さも葉の深緑さえ揃った森林や、なんの濁りもない積雪の白、この世界を構成しているものは全て秩序立っていて、なんの不自然もなく単一的であるように見えたのに、それでもこの世界はなんだか、おかしかった。垂直と並行の理性しか持ち合わせていないここは、むしろ狂っていて、歪んでいて、ねじれているのかもしれなかった。

・・・・・・・

はらはら、白い雪が舞い落ちているのに気がついて、そう呟いた。今年初めての雪なんじゃないだろうか。この寒さだったら明日にでも初雪だろう、と、昼間に父さんが言っていたことを思い出す。
僕は何か探している。きっと何かを忘れている。思い出さなければいけない、いやもしかしたら、もうすでにそれは、僕のなかにあるのかもしれない。それはなに?僕はどうしてこんなに、胸が苦しいんだろう。

ところどころにシミがついたクリーム色の壁紙、角が削れて色褪せた勉強机、埃と古くなった洗剤の匂いが混ざるザラザラなシーツ、統一感のない高さと厚みで並べられたCD、本、それから雑誌。
様々な要素が込み入って雑然とした部屋の中で、壁掛け時計の秒針がトクトクと音を立てながら一定に時を刻む。
僕は息ができた。当たり前のように。この世界は混沌としているように見えて、それでも自然なのだ。

そして僕は知った。
君は僕だったのだと。




自分の書きかけの小説の解説をするってゆーマジでめちゃくちゃ寒いことをするので、さすがにこれはいつか羞恥で消すかもしれないんですけど、未来の私が色々忘れた時のために、未来の私に向けて説明する。
ストーリー的には、「僕」が両親の不和や引っ越しなんかに疲れてベッドの上で寝落ちしちゃって、起きたらよくわからん雪山?雪平原?にいて、そこで雪の妖精みたいなのと出会って仲良くなって不思議な時間を過ごした後にまた寝落ち。起きたら普通にベッドの上に寝てる状態で、アレ?夢落ち?てなってたら外で初雪が降り始めてて、真理に気付く僕。とゆーまあ安直な話でした。ちゃんちゃん。
つまり僕は現実世界、人為にあふれた場所で生きていて、反対に雪の妖精なるものはある種観念的な、無為自然の世界で生きてる、いわば僕の魂の擬人化だった。本来人為は混沌である自然の状態を秩序立て、分節するはずのものなのに、僕は現実世界の過剰な人為の作り込みみたいなものに辟易としていて、人が利便性なんかを求めて後先考えず沢山モノを作ったせいで、むしろモノにあふれたこの世界はカオス(=混沌)と化してるんだ!っていう。逆に、雪の妖精が生きる自然の世界は、「この世界を構成しているものは全て秩序立っていて、なんの不自然もなく単一的であるように見えたのに、それでもこの世界はなんだか、おかしかった。垂直と並行の理性しか持ち合わせていないここは、むしろ狂っていて、歪んでいて、ねじれているのかもしれなかった。」言いたいのは多分、自然の世界は人為を介さないという点で混沌なんだけれど、実は自然の方がずっとシンプルで、整然としていて、簡潔であると。本質は実は極めて単純なものなはずなんだ、と私自身考えているのかもしれない。でもその整然さが、ごちゃごちゃした現実世界に生きる「僕」にとってはある種の脅威や畏怖さえ抱いてしまうほど、圧倒的・絶対的なものなんだっていう。
で、結局、現実世界に疲弊した僕が、雪の妖精(つまり見失いかけていた自分の本質的なもの、魂みたいなもの)と出会い、交わることで、その存在が確かに自分自身に内在していることを思い出す。その想起の作業こそが、疲弊しきっていた僕にとっては救世主とさえ言いたくなるほど救いになるものだった。

自分が完全感性の赴くままに書いた文章からその時の自分の心理状態を読み解くのはそこそこ面白かった。あと「僕」ってもうほぼ私みたいなもんで、これと同じ作業を実際にのちの思考活動で反復みたいな感じでやってるから、それを鑑みると、自分自身の思索よりも先に言葉の戯れ(小説形式でメタファーに投じて書く作業)が自分の悩みを紐解く鍵を握ってたと言ってもいい。言葉が私の思考に先立って私を導いてくれた、個人的にはささやかながらもすごく画期的な経験だったように思う。


※2 これは11月の頭にブログ書こうと思って、結局書き切らなくて中途半端にしてた文章。自分を信頼できないのは自分を散々裏切ってきた経験が原因だとしていたけど、さらに突き詰めて自分に一貫性が無いという致命的な弱点に気付いたときのやつ。ちょうど難解すぎる哲学書にブチギレてた(アホなのが悪い)タイミングだったので時間がどうとか言ってる。すごいかっこつけてる。


このブログは、散在する思考や感情を書き留めていくことによって、後から振り返った際より正確に自分の辿った軌跡を理解すること、を目的に始めたものでした。記憶って基本的にはご都合主義なので、実際その時々に得た肌感なるものはリアルタイムの記録が無ければ簡単に書き換えられてしまいます。特に私個人に関していえば、思考と情緒が秋の空もびっくりの移ろいやすさで、常々自分が”今現在”置かれている物理的・精神的条件に支配されるしかない従的物体なんだと思わされています。今は絶えず過去になり、過去の地点に立つ私はたしかに”私”自身であるはずなのに今の自分と明らかな相違があります。昨日の私と今日の私を、10秒前の私と今の私を「同じである」と呼ぶのは真なのか。自分として存在する限り完全な客観を捉えることができないように、不可逆的な時間の流れに身を置く以上今この瞬間の自分が絶対的優位性をもっている事は否めないのではないだろうか。同じ川に二度入ることができないように、過去の自分がたしかに自分だからといって、その当時と全く同じ思考や感想を再び自分の中に喚起できるわけじゃない。だとしたら過去の自分と今の自分をどうして同じものだと言えるのか。体内の細胞ひとつとっても両者は明確に違いがある。
思考の暴走はここまでにして、とにかく私はこの脅威(記憶の書き換えに対する抵抗感)から、こうしてブログを書くことにしたんだけれど、そこでまた気付き?があった。当たり前だけど、蛇口を捻って流れ落ちる水みたいに、絶え間なく流動していく自分の一つ残らず全てを記録するなんて事は出来ないわけである。そうすると文章として記録したこういうリアルタイムの思考状況さえ、抜粋や抽出や失念なんかによる不完全に晒されるのは常なわけで、やっぱり正確な記録っていうのは難しいんだろうなと思う。あと、言葉は有限にも関わらず強靭である。そして強靭さそれこそが諸刃の剣である。混沌とした思考を言葉によって文節していき、整然立たせる事は、心地いい理解と引き換えに有限なそれが掬いきれなかったものたちを無視していくことでもある。置いていかれた混沌たちは忘れ去られ、単なるぼやけた背景と化していく。覚えていられないから。記録できないから。無念!でも仕方ないんだろうね。そこを突き詰めようとして記録の有限性に打ちひしがれるよりは、もう諦めてなるべく正確で網羅的な記述をすることに徹した方がいいんだろう。
人間ってかなしい。




人間って、かなしい!!

おしまい

芸術とは想起である


芸術という人の営みのなかに潜む反復性は、受け手の絶え間ない想起なのではないかと。

我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。



プラトンイデアに関する説明に変に説得力を感じてしまったのは、私が何か芸術の産物を享受したときに、胸のうちに湧き上がっている感覚というものを上手く説明されてしまったような気がしたから。ずっと不思議だった。ある曲を聴いたとき、ある映画を見たとき、ある本を読んだとき、沈んでいく夕陽のオレンジに包まれたとき、心臓が波の音に呼応したとき、水面に散らばる光を追いかけたとき、
この心が震える感覚はなんだろうと思っていた。感動した、っていう言葉は文字にすると安っぽくて好きじゃないけれど、そういうことなんだろう。私の内側にある熱くてトロトロした何かが、共鳴して蠢くような感覚。理由もなくそういう思いがするのは、人間の本能的な感度なのか、それとも遠い記憶の想起なのか。私が忘れてしまった大切な何かを思い出しているんじゃないか?プラトンの言葉を借りればそれは天上の世界においてきたものごとの真の姿なのかもしれない。もちろんプラトンはこういった感覚的すぎる話からではなくてもっと論理的なアプローチで彼独自の哲学を昇華させているんだろうけれど、まあそこに関しては知らないことが多いから詳しい言及は避けるとして、ひとまず私はこういうスピリチュアルな心理体験から彼の突飛とさえ思えるような理論に若干の納得を呈してしまったのである。

夕陽が綺麗と思うのはなぜ?大海原にぷかぷかと浮かぶのが脅威なのはなぜ?空の青さに胸を打たれるのはなぜ?どうしてあなたの涙の味がわかる気がするのか。どうして一緒に泣けるのか。どうして誰かを想うと無性に胸が痛くなるのか。
関係ない話だけど、母親のお腹の中にいるときの羊水の成分と、海水の成分は類似性が高いらしい。

人間には鋭い鈍いはあるにせよ感性や情動みたいなものが備わっていて(何かしらの問題を抱えていない限り多くは)、それがすごく不思議だと思う。イデアとかの話で片付けてしまえば楽だけれど考えても考えてもなかなか答えの出ない観念的な論題だし、でもそれは確実に存在して、芸術はそういうあまりに説明のつかない高度に感覚的な精神を想起させる営みでもあるんじゃないかと、何度も考える。これは私が常々憧れてやまない人間の普遍性にニアリーイコールの概念である。
ヒポクラテスは「芸術は長く、人生は短い」と。
「少年老いやすく学成り難し」と残したのは朱熹らしい(諸説ある)。
日本人は古の時代から散りゆく桜を見ては自分のようだと袖を濡らしたし、線香花火には変化する段階ごとに人生さえ投影してしまう。
(「あはれなり」の日本人的感性とキリスト教文化の精神性を並べて述懐するのは微妙な気がするけど。)

人間失格』の巻末の解説にて、奥野健男さんの最後の文章が印象に残ったので引用する。

この作品は、ある性格を持って生れた人々の、弱き美しきかなしき純粋な魂を持った人々の永遠の代弁者であり、救いであるのだ。


私が救われた当事者の一人なのでひどく首肯してしまったのだが、実際芸術に浮かび上がる普遍性とはこういうことだと思う。例えばスマホやパソコンなんかは多分あと30年もすれば廃れてしまう文化だけれど、芸術というものは結局「人間」という(ただその一点だけの!)共通性で古今東西どこにだって繋がれているのだ。普遍性に触れた作品はどんなに時を経たとしても、受け継ぐ媒体が人間である限り、きっといつまでもリアリティのある共感や感動として輝き続ける。100年以上前に生まれた太宰の痛みが、今の私の胸のうちにも生々しく蘇ってくるように。ラスコーの洞窟壁画の生命力に現代人さえも感服してしまうように。もちろん科学の発展が生む現代の利器や新技術の恩恵は嫌というほど受けているし、それが不要だとか、芸術に劣るとか否定しているわけでは全くない。だけど私はやっぱりそういう、「人間」というただ一点で膨大な月日の山積を貫いてしまうみたいな絶対性にロマンを感じずにはいられない。


ここで私が最近心を揺さぶられたふたつを紹介します。『アリー・スター誕生』のガガの歌唱もめちゃくちゃ感動したんだけど、それは前にブログにまとめたので…。

ひとつめ、バンタンの『Permission to dance 国連ver.』!!!

youtu.be


まあ、曲がまず良いよね。メロディーラインが天才で…洋楽リスナーの受けを狙って作られたにしてもあまりに良くて……
これ見たときメンタル死んでたんか知らないけど、BGM代わりにでもしようとなんとなく流したのが国連バージョンで、アホみたいに見入ってしまいました。
多分、曲の良さやバンタンのパフォーマンス力の高さもあるんだけど、”BTS”というグループがこの曲をここで歌っている、そのことに対してものすごく価値を感じたし、訴えかけられるものがあったと思うんだよね。というのも、バンタンって、(2018年の一時期以外ほぼお茶の間目線でしか見ていなかったから浅いことしか言えないけど)「アイドルとアーティストの狭間で葛藤し続けてきた青年たち」だと思うんです。

「アイドル」は、事務所に用意された舞台と、楽曲とコンセプトを、忠実に消化していく人たち。ファンという特殊な集団に、自分の身体のある側面や表現を提供し続け、食い続けられる不思議な存在だと思う。まさに偶像、ファンに生身の自分自身をもって夢を見せる虚構のかたまり。悪意のある言い方だと思うかもしれない。でも実際そういうものだ。私の推しのセフンは、あるラインから先はびっくりするほど見せてくれない(見ようとも思わないけど)。ここから先はあなたたちの好きに理解して良いよ、でもここから先は絶対に見せないよ。そういう意識。他人の人格を食い物にしてるんだからファンって、自分って怖いなと思う。まあアイドルに関して話すと長くなるので割愛するけど、つまり彼らは強い自我というものを求められていない。むしろ自我が見えなければ見えないほど、アイドルとしては完全になれる。良い例がビョンベッキョンさんです。不動のEXO人気ナンバーワンたる所以はそこにあるように思う。

難しいのがアーティストとの線引きである。アーティスト、すなわち芸術を紡ぐ人というのは、ある程度確固たる自我を持ち合わせていないとその道を築けないと思う。芸術はつまるところ、自分を震源とした世界を自己の視点で描いてみることで、自分をよく知っていないと、そしてそのなかで表現したい何かをわかっていないと為せない営みだからだ。(そういえばアリー・スター誕生にも似たようなセリフがあった。)
自我の表出を求められずコンセプトを上手に着ることが重要なアイドルと、自我の表出から表現を手繰っていくアーティスト。ただ音楽だとかダンスだとか歌だとか、表現の媒体は皮肉なほど似ている。そこで私はたまに、そのふたつのうちで相克に悩むアイドルを見る。バンタンがモロ、それ。
彼らの芸術的感性は驚くほど高い。KPOP界でもズバ抜けてるし、だからこそトップを走り続けられているんだろう。でもその感性はアイドルと指すよりも芸術家と呼んだ方が良いんじゃないかと思えるような鋭さをしている(感性に関してアイドル<アーティストと優劣をつけている訳ではなく、自我を押し殺して虚飾で自分を塗り固めること、それを大衆に好き勝手消費されることに抵抗感を示しているように見えるという意味で、適性がアーティスト寄りに感じるという意味)。
表現や自分たちの振る舞い方や、そういう苦悩に苛まれ、何度も試みた彼らが、国際的な舞台で悩める若者に歌うからこそ、曲は初めて鮮やかに色付くし、人々は励まされるのだと思う。
私はこれを見たとき眩しすぎて泣きそうになっちゃった。まあバンタンが好きかつ、こうして彼らの遍歴に関する予備知識をある程度備えてるから、っていう感動もあるだろうけど。それでも世界中に、この底抜けに明るく「ただ踊りたいだけなんだ」と叫ぶ『Permission to dance』を聴いて笑顔になれた人は大勢いると思う。差別や格差や偏見や利権や誹謗中傷、いろんな絶望に目を閉じたくなってしまいそうな暗澹とした世界にも、希望はあるんだなあって。闇で埋もれそうな希望の芽に一筋の光を差してあげるのが、今も昔も、こういう芸術だったんじゃないかって思いました。…長くない?(長いね)

ふたつめは一昨日くらいに観た『スウィング・キッズ』です!
今回特に言及したいのは、最後の最後、現代のジャクソンが訪韓して、実際にギスたちとダンスをしたステージを撫でるシーン。
あそこ、多分観てる人はジャクソンに感情移入して、走馬灯のようにそれまで映画で見せられてきた青春の記憶が溢れ出してくると思うんよね。私は溢れてきましたね。どうしようもない感情になってしまいました。
私が良いなと思った点は、映画の最後に現在の我々の時代に立ち返って、現在の我々の時間軸からそれまでの流れを俯瞰したところ。多分スウィングキッズを見るまでは、最後のシーンでガイドさんが「ここは〜したところです」と紹介される、掲示された年表のたった一文、コンパクトにまとめられた教科書の一コマ、それだけの接点で、朝鮮戦争捕虜の話なんてのは完結してしまっていたと思う。これはスウィングキッズに限らず全ての歴史映画や本に関して言えることで。それがこの映画に没入した2時間によって、実際に感触を持つリアルな記憶として、観た人間の身体に刻まれたんだと思う。
そういう意味でも、私は冒頭の「芸術は想起である」という考えに立ち返りたい。映画なんかの緻密な芸術表現が、時を経ても人間の胸に、過去人類が辿った歴史を想起させる。その作業を大事にしないといけないな、と。東京大空襲の展示を運営してる方(youtubeで見たけど名前がわからない)が、「戦争を知る世代が減るなかで、想像力を養うのが大事」という旨の話をされていたけれど、その想像力たるものを甘く見たら人間に未来はないとさえ思うのだ。そういう記憶の継承や、想起に挑戦し続けるような仕事ができたら良いなということも漠然とだけれど思う。

本とか映画の感想文とかADHDに関する記録?みたいなの投稿したいと思いつつ手が動かない。泣 
スウィング・キッズ個人的にはすごく好きな映画だったし、ドギョンスの演技力に想像以上に敬服したし、いろんな人に見てほしい。

おしまい

最近の私に関する発見ふたつ

考えているうちに少し自分に関して発見があったのでブログに記すことにします。

発見ひとつめ、感覚過敏みがあるかもしれない!

これはあくまで予想だし、傾向があるなあという肌感だけでの話なんだけど。というか私は自分に対して病気とか症状の名前をつけて安心する、みたいなのがすごくエゴに見えて嫌いだからそういうのも本当は嫌なんだけど・・・だからまあ、感覚過敏という言葉を使うよりかは、「周辺の情報や感知した環境状況に対して上手く反応できない」傾向がある、といった方が良いかもしれない。

例えば人混み。特に新宿駅。これは正直割と誰にでも当てはまることなんじゃないかと思う。
人混みや満員電車みたいなのは誰でも気疲れすると思うんだけど、私は同じ人混みでも場所によって、過剰に疲れて精神がひどくささくれるときや、あまりそういうのが気にならないときがあるから、それについて分析してみる。
私は多分周囲に溢れる情報をよく見よう、よく知ろうとする意識があるんだろう。だから前回の記事でも書いたけど、教室みたいな場所は精神をすごく消耗する。私にとっては人間というのもまた情報で、しかもそれは本とかそういうのよりもずっと膨大な、重量のある情報だ。相手には自分と同じように意思や感情があって、その人の経験と生来的な特質から練り上げられた思考体系があって、しかも人形とは違って自発的に行動を起こすから、私にとってはきっと思考対象における最重要事項の存在なんだと思う。学校みたいな場所だと、ある程度、表面的には周りの人間がどういう人なのかというのを知っていて、中途半端にその情報の中に片足を突っ込んでいる状態だから、余計に困る。中途半端に知っているみたいな状態が私には一番辛くて、ドアが開いている、その奥の玄関まで見えている状況なら、玄関に上がって先を見なくてはいけない気持ちになる。(相手の心の玄関とかの意味ではないです。中途半端とかの度合いの比喩です)
満員電車よりも新宿駅構内で歩いている時の方が疲れるのはなんでだろう。それは多分、構内で歩くときにすれ違う人間の方が、情報がよく見えているからだと思う。例えば電話で友達と話してるし、余裕なげな小難しい顔をしながら足早に改札へ向かっているし、たまに悪意を剥き出しにしてこちらにぶつかってくる人もいる。相手のことが車内よりもよく伺えるから、そして新宿駅構内は結構イライラして悪意に満ち満ちた人間も多いので、その分精神的に疲弊しがちなんじゃないか。お祭りの人混みがそれよりも平気なのは、多分悪意を感じることが少ないからじゃないかな。みんな比較的意気揚々としているから、こちらも深刻にならずに済むんだろうと思う。ありがちな考察だけど。
人の怒鳴り声が苦手、集団や人間の終結により加速するエネルギー、その高揚感が苦手(ナショナリズムとか、オタクの作るツイッタータグとか、他にも色々そういう類のもの。スポーツ観戦もそうかもしれない)。

あと、学術的な本や取扱説明書や資料集を読むのが本当に苦手なんだけど、それもここから来ているのかもしれない。そう思うと納得する点も多かった。
例えば論文とか取扱説明書て、全部同じ字の大きさだし、同じ色だし、一文字単位での視覚的情報が類似しすぎてるのよね。しかも文字って、必ずそこには意味があるから、それだけでも私にとっては重大な情報で、つまり視覚的にも内包的にも情報量がほぼ等しくて差異がないから、どこから手をつけて良いかわからなくなってしまう。イメージとしては文字がこちらに向かって発声している感じかもしれない。みんな同時に自己主張するから、何を言っているのかわからない。周りに散在する文字たちの声を振り払って一つの文章を捉えるのが結構疲れる。集中しないと読めないから(それはそう)読むのがめんどくさくてしんどくて結果読みたくない!になる。他にも多動性みたいなものは関係していると思うけど、そういう部分はあるかもしれないなと思った。


それと二つ目の発見、自分は常に相対評価の価値基準があるのかもしれない。

これは私のいろんな習性につながる発見だった。
例えば私は争いごとや勝負ごとがものすごく苦手だ。今までも勝負が必須の個人スポーツ(卓球とか、競技かるたとか)をやっては、その度に自分の勝負欲のなさとか、負けず嫌いを超越した勝負放棄癖みたいなものに「???」ってなっていた。なんか、相手と対峙した瞬間に逃げたくなる。ああもう、戦うのめんどくさい、どうせ負けるし、いいですどうぞ私という屍を踏み越えてお先に行ってください。みたいな気分になる。試合前の気合を入れるルーティーンみたいなの何回かやってみたけど「逃げ出したい」の邪念しかなくてかけらも成功しなかった。「絶対勝つぞ」みたいな鼓舞をされても正直よくわからない。勝つか負けるか決まるのが怖い。相手に負けるのが怖いし勝つまで戦うのも怖い。粘るとかいう概念もない。
でもその割に自分は完璧主義で、評価をつけられるならトップになりたいと思う節がある。マルバツで丸をつけたいんじゃなくて、ピラミッドのトップかその上に行きたい。多分これは勝負からの逃げなんだと思う。不戦勝をしたいだけなんじゃないか。スレスレのところで勝ち負けを決めるのが嫌だから、試合放棄か、あるいは圧倒的な力量で勝負するまでもない状況にするか。そういう思考回路しかない。でも現実問題、トップに立てるほどの秀でた何かは無いわけで、だいたいトップに行くまでにもそのフィールドにいる人に多少の勝負は挑まなきゃいけないわけで、そうなると全てが嫌になってしまう。なんか、生きるのマジで向いてないな。これは受験もしんどいはずだわ。腐りきったプライドは、一旦地に叩き落とされないと好転しないんだろうか。それか、安定して勝てると思うフィールドに転身するか。でもそんなのあるのだろうか?努力できる才能ってやっぱり一番大事だと思う。それがなくちゃ結局何者にもなれないから。

で、何が言いたかったいうと、こういう自分の勝負ごとに対する逃げ腰の根底にある価値観は”相対評価への気鬱”だと思うのだ。自分は常に人と自分を比べて、自分じゃなくても何かを論じたい時にはそれの比較対象となりうるものを持ってきて相対評価を図り、物事の立ち位置や、価値を決定しているように思う。なんでこうなってしまったのだろうか。やっぱり小学校時代から受験に向けて数値で周りと比較され続けてきたから?環境の問題?それとも自分の生来的な性格によるものなんだろうか。
とにかく私はなんでも相対的に見てしまう癖があって、でも自分がその軸にかけられて優劣をつけられたり価値を見出されたりするのは窮屈で(そもそも人間的に問題がありすぎて大体は”劣”に振られるのだ、私の育ってきた学校はみんなそれなりに優秀なので尚更。)そこから逃げ出したくてこうなってしまうんだと思う。

そして私がなぜ”人間の普遍性”というものに強く拘り、また強く惹かれるのかもわかった気がした。私は小学生か中一だったかの頃、新勅撰集/小倉百人一首「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」と平家物語祇園精舎」が湛える無常観を理解してから、今も昔も変わらない人間の普遍的な観念のようなものにすごく興味がある。人間の普遍的な観念とは言い換えれば時を経ても変わることのない絶対的な真理のようなもので、日頃自身の相対的価値基準に悩まされることの多い私からしたらそれは圧倒的に崇高で、尊い、憧れような存在なのかもしれない。なんの相対評価も必要としない、絶対に絶対的なもの。そういうのが知りたくて、そういう情感を想起させるものが見たくて聴きたくて、動いてしまうことがよくある。今思えばどうして四者面談に加え反省文を書かされるまでアーティストのライブに参加することにこだわったのかもわかる気がする。ダメだけど。それでも多分私はそういうものに少しでも近づきたくて、ある意味強い本能に突き動かされていたんだと思う。このことに対する自分の頑固さと、共同体維持のための規範が正面衝突したのが一昨年の四者面談&「怠業」認定だったんだと思う。かっこよく言い過ぎだけど。つまり自分の欲望に負けて先生に怒られて反省文を書きましたという話です。今となっては貴重な思い出。

以上、最近の私の発見でした。
映画と本の感想もそろそろ書かなきゃと思ってるんだけど、なかなか手が進みません。なみだ・・・・
健康に生きよう。

おわり

『人間失格』に"共感"した。

私には今、わたしを襲う得体の知れない恐怖があって、自分でも自分のことがよくわからなくて、まわりのこともよくわからなくて、混乱しています。
もっともこの混乱は常習的なもので、私は以前からずっと明るい私と、世界の光が見えているわたしと、世界の暗さ、それは本当に胎道みたいな真っ黒の塗りつぶされた闇ですが、そういうものしか見えなくなってしまうわたし、その三者が共存しているように思います。今までと違うのは、明るい私、これは対人において楽しく振る舞える私という意味ですが、それが三つ目のわたしに飲み込まれつつあるという点です。わたしは明るい私を疑って、その明るさを暴こうとしている。そこで押し寄せた脅威が今の私の混乱に等しいものなのだと思います。

・・・

人間失格』を読んだ。面白かった。何が面白かったかというと、男の心情が。似ていると思った。私は視覚的でないものごとについて似ているとか、特にそれが感情とか内面的特質である場合には使いたくないんだけれど、それなら違うふうに言ってみると、私は彼に”共感”できた。もちろん全部ではない。彼は鎌倉で女と心中を図るし、アルコールとモルヒネに溺れるし、最後には廃人と化して「人間失格」してしまう。私はどこにでもいるただの女子高生で、人と心中を図ることもしないし中毒症状に悩まされるほど何かに依存しているわけでもない(依存気味、というとスマホくらいだろうか)。そして廃人(ここでは懊悩の感情さえも失った人間)でもない。彼と私は根本的に違うから、本当は共感というのもおこがましい。それでもこうして文章を書こうと思ったのは、今の私の悩みのようなものに、何か通ずる観念が『人間失格』に描かれていたからである。
※ここでは本文から伺える男の精神性と私の現在の思考記録を並列しながら述べていく。あまりこういうやり方は好きではないけど、それでも今回ばかりはやってみる。思考整理のためだから。私は自分を知りたいのです。
※ちなみになぜこういうやり方が好きではないのかというと、”共感”というのは自分にとっては圧倒的な説得力があるけれど、第三者からすればそれは極めて感覚的なものでしかないから。小説に限らず、何かを解釈し自分の言葉で説明付けてみるためには、自分自身に湧き上がってきた共感からではなくそこに示された文脈から、できる限り客観的に、ロジカルな思考で向き合わなければならないと思う。じゃないと論理的じゃない。主観は所詮主観でしかない。まあ要は共感は考察ではなくただの感想なのだ。

「つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか?エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか?それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、…」(p.13)

私は人と対峙するのが怖い。誰かが私のことを考える、というのがとても怖い。

(2021.8.21のメモより引用)
なぜなら人はみんな自分だけの色眼鏡を持っているからです。
人の数だけその眼鏡はあります。分厚いレンズを持っている人もいれば、極めて薄いレンズの人もいます。眼鏡にヒビが入っていたり、歪んでいたり、あるいはブルーライトカットの機能みたいにある一つの光線が通るのを許さないものもあります。自分がそういったものをかけているのだと気付いている人もいれば気付いていない人もいて、自覚してはいるけれど眼鏡の型を勘違いしている人もいて、もちろんその中には私も含まれています。人は自分の眼鏡を外すことはできないのです。自分の顔が鏡なしでは見れないのと同じで、眼鏡が具体的にどういう様相をしているか、正確に知ることはできません。思えば私は常に自分や人の色眼鏡のことを気にしている気がします。自分が普遍ではなく装着者の一人なのだと知ったとき、私は自分に見えているものが信じられなくなります。レンズを取っ払おうとしますができません。私が私である限り自力でそのレンズのありさまを認識することはできなくて、私は常にレンズの最薄地点を見極めようと奮闘している気がします。
私が怖いのは、他人にレンズ越しに「私」という存在を規定されることです。例えばよく「あの人の気性は荒い」「あの人は単純な考えをしている」などと人を言ったりしますが、私は人にそういう風に形容されるのが怖いのです。私ですら私のことをよく知らないのに、他人に自分についての感想を持たれるのが私にとっては脅威、暴力でしかないのです。正直今は感情が高ぶって強い単語を使ってしまっているので、常日頃からこういった恐怖に慄いている訳ではありません。ただふと一人で考え込んだ時や、人と親しく話した直後、知らず知らずのうちにストレスが溜まっている気がします。
私と話した後は私のことは一切忘れてほしい。一人になった時私のことを考えないでほしい。私に対して何か感想をもったり、私のことを友達同士で話題にするのはやめてほしい。友達に好きだと言われると、私の何を見て好きと思うんだろうと訝しがってしまう癖があります。自分に自信がないからというのもそうだし、私の何を知ってるの?と、突き放すとかではなく純粋な疑問として、不思議に思ってしまいます。人が信じられません。私が信じているのは結局自分だけなのかもしれません。でも自分自身でさえ信用に値するほど素直で、実直な人間ではないのです。

(2021.8.28のメモより引用)
人の苦しみは相対的なものではありません。苦しみや痛みや悲しみはそれぞれにそれぞれのひとつしかありません。同じ種類の、同じかたちの、同じ味をした痛みは存在しません。あなたの痛みはあなたのものだし、私の苦悩は私だけの苦悩です。私が人に理解されることを諦めるのはそういうことです。人を理解しようとするのはある意味では暴力です。

このことには今年度のはじめ、6月くらいからすでに怖気付き始めていたようである。人の目に移るのが怖かった。30人かそれ以上の、私のことを表面上は認識している程度の、他人と知り合いの間くらいの人がいっぱいいる教室が怖かった。何か感想を持たれるのが怖かった。私がみんなに感想を持つように。教室の真ん中の席は嫌い。四方八方を人に囲まれて、逃げ場が無いから。電車とか喫茶店は良い。私の隣にいる人も私がどういう人間かは知らないし、私も相手が一体どういう人で、どこで働いていて、どういう過去を持つかなんて何も知らない。彼は私に感想を持たない。学校の人は違う。私のことを知ってるし、無邪気だし、だから怖い。決めつけられそうで。あなたの眼鏡越しの私はどういう風に映っている?繊細なわたしが、あなたの傲慢な承認欲求に摩耗されはしないか。削れるのが怖くて、擦り減るのが痛くて、今はただただ怖いです。
私を理解しようと勝手に奮闘されるのはもっと嫌だった。中三の時に面談したあの先生の目が怖かった。会話の中から私がどういう人間なのか、何を考えているのか、些細なことも見逃さないぞ、みたいな気概がすごかった。間違って出したほつれの糸さえ強く強く引っ張られそうになった。あなたは何で私のことを知りたいの?変だから?遅刻が多くて、周りからちょっとはみ出ているように見えるから?私が学年の中で心配な子の一人だったって、そんなこと言われても、困る。自分だってなりたくてなってるわけじゃないし。心配されたって困る。私を共同体の輪の中に押し込もうと奮闘するあなたの腕力が痛くてたまらなかった。でもそうしてでも、何食わぬ顔して輪と手を繋いでなくちゃいけない、そういうこともわかっている。わからないとでも思ったのか?あなたは私のことを理解できるとそう思ったのだろうか?人を理解しようとするのはすごく、怖いことだと思う。もしそれを試みようとするならそれは、独りよがりで、エゴイズムで、自己陶酔の独白でしかない。でもそんなこと考えずに生きていけるならそれでいいし、それが楽なんだろうな。簡単に暴力を被ってしまう私が、それを暴力だとか思ってしまう自分がおかしいんだろう。

学校という場が、そもそも向いてないんだと思う。近い年の女の子たちが小さい箱に詰め込まれて、その中に一人二人、そういうたくさんの、十人十色の子供達を相手にする大人がいる。同年代の子は無邪気すぎて怖いし、大人は逆に、こちらをじっと見つめてくるから怖い。そもそも生徒を一人一人ちゃんと見なくちゃいけないのが先生だから、それが職業だから仕方がないんだけど、だからこそ「この子はどういう子なんだろう」みたいな目で見つめられるのが怖い。子供の無邪気に傷付けられるのも、大人のエゴイズムを吸い込むのも苦しい。例えば周りは山で、私は山間の谷だ。周囲には情報が土砂降りに降り注いでいて、山は崩れ、土砂として谷に流れ込んでくる。崖の淵から周りを見ていたら、情報がものすごい勢いで、こちら目がけて下降してくる。私は逃げ出したいのに、どこにも逃げ場がなくて、たまに過呼吸になって、たまに涙が出て、どうしようもなく苦しくなる。

・・

「そこで考え出したのは、道化でした。…そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。」(p.14)

「『ワザ。ワザ』自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ!と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。」(p.29)

「『あのひとのお父さんが悪いのですよ』何気なさそうに、そう言った。『私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、…神様みたいないい子でした』」(p.155)

人と話す時の自分を、友達と冗談を言って笑い合う時の自分を遠くから見つめてしまったのがきっと良くなかった。私は一人の時と誰かと話している時で、びっくりするくらい人が違う。一人だとずっとこんなこと考えてる。よくわからないことをずっとぐるぐる考えている。でも人にそのことを気付かれるのが怖い。変だね、おかしいね、考えすぎじゃない?すごい考えしてるんだね。そう一歩引かれた目で見られるのが怖い。逆になんでそうやって平然と生きられるんだろうと思うけど、でも平然と生きることに苦労する人の方が少数派なのかもしれない。暗さに覆われた自分を知られるのが怖くて、人の前だとおどけて振る舞おうとしてしまう。今朝のしょーもない発見とか、くだらないあるある話とか、世界一興味のない恋バナとか人の噂話とか。全部興味が無いし、話したくもないのに話してしまう。私にとって会話って、ものすごく神経を使うことなのだ。相手の話のどこで相槌を打つか、数秒空いた間に違和感はあったか、あちらに話題がなさそうだから今度は私から話した方がいいかも、この話はきっと共感して盛り上げて欲しい内容だから、聞き役に徹した方がいいかも。そういうのをずっと考えながら常にパニック状態で話している気がする。だからそういうのの後はものすごく疲れている。自然に(あの時は絶対にこうした方がよかった)みたいな反省会が始まって、自分の拙さに落ち込んで、フル回転状態だったアンテナが息切れする。一人の時、アンテナが完全に停止しきった状態の私は誰にも知られたくない。だから休日に知り合いに会うとものすごく驚いて、「しまった」と思う。瞬時に自分の出で立ちが、顔が、様子が、雰囲気が、陰気ではなかったかと。陰りを帯びてはいなかったかと心配に駆られる。ギクリとする。相手を訝しがってしまう。もしかしてあなたは見たんじゃないの?学校から一人で帰る時、通学路で友達に会うのが苦手なのも同じ感覚だ。一緒に帰ろう、という流れになると、アンテナを戻すのがしんどくて、気持ちが追いついていかなくて焦る。
会話に関しては大人と話す方が楽だ。多分年が上の分、相手の方がそういう気は遣おうとしてくれているはずだし、ちょっと私の話が下手だったところで若さに免じて許してくれるだろうと安心できる。バイト先でもツイッターでも私は結局同年代の子たちじゃなくて、年が一回りくらい上の人とよくお話ししていたし、そっちの方が落ち着いていて楽でまだ安心できた。

私には多数派から少しズレた感性がいくらかあるんじゃないかと思う。学校で反省文を提出したことがある人間なんてそんなに多くないはずだ。多くの人は異性を好きになるだろうし、できれば恋愛の高揚感を味わいたいと思っているし、教室に入るのが怖くて脚が竦んだことだって数えるほどしかないだろう(一回も無いかもしれない)。なんだか生きている中で、私の周辺環境もあるのかもしれないけれど、違和感を感じることがよくある。人と違う考えをしてるな、違う感性でものを見てるな、自分をありのままに振る舞ったら、きっと今いる世界から逸脱してしまうだろう。そういう生きづらさがずっとある。
大丈夫?と聞かれるのが苦手。大丈夫って、あなたにとっては何がどういう状態なら大丈夫なのだろうか?仮に私が大丈夫じゃないと答えて、あなたはどうするの?大丈夫になって、と励ますの?慰めるの?大丈夫だよ、と抱きしめる?私が大丈夫かどうかなんて、知らせたところで何にもならないし、何かになるというならそれはただの自己満足なんじゃないか。
そこには「大丈夫」と「大丈夫じゃない」の区分けがある。あなたには自分の理解できる範疇があって、そこから大きく飛び出していれば理解できなくなる。私はきっとそこにいるのに。
たとえばその範疇は、シリコンの鋳型みたいなものだ。ある程度は柔軟に形を変えられるけれど、限界値を超えると破壊される。輪ゴムが、伸ばしすぎるとある時突然プツンと切れるみたいに。みんながみんな鋳型を持っているわけじゃないし、その鋳型も大きさや重さや硬さはそれぞれ違っている。でも私がたとえば誰かと対峙して、その誰かの中に彼/彼女の鋳型を見つけたら、私は萎縮してしまう。相手が鋳型を持っていたら、多くの場合私は彼と真っ向勝負なんてせず、自らをその鋳型に収めようとしてしまう。その鋳型が壊れないように自分から形を変えて、ぎゅうぎゅうだなって、窮屈だって思いながらそれに合わせようとする。それが葉蔵にとっての”道化”なのかもしれない。少なくとも私は、相手の鋳型に合わせて自分の形を変えるその瞬間にひどく疲弊する。結局私はわたしが大事で仕方ないんだろう。大切にしたくてしょうがないのだ。自分を偽るのはどうしてこんなに苦しいんだろうか。わたしって私の何なんだろうか?お前はそんなに価値あるものなの?私をこうまでして疲れさせるほど、私はわたしを守らなくちゃいけないのか?
結局マダムにさえ、葉蔵は理解されなかったのだ。だって、お父さんが悪いわけじゃないんだから。葉蔵は葉蔵で、あのままの彼で、あのままの彼だからこそアルコールやモルヒネに溺れなくてはいけなくて、”彼だから”ただそれだけの理由で、ひたすら懊悩、懊悩に蝕まれていったのだ。人間失格になったのは他の誰でもない彼なのだ。でも人間なんて所詮その程度なんだろう。あそこまで赤裸々で、無茶苦茶で、痛みつけられた手記を持ってしてさえ、人間は人から理解されないし、人間は人を理解できないものなのだ。見たいものだけ見てしまう。私も含め。
人間失格』のこの締め方は最高だと思った。最高の、最悪な絶望。

・・・

ここまで書いて一息つけた。結局こうして綴っても、私は怖いばかりだった。何が何だかわからない。わからないって言えば済むと思っている。ひどい文章だけれど、人に読ませたくて書いたわけじゃないし、別にいいや。こういうのもあるよね。
もちろん私のとめどない思考はこれがすべてではなくて、こうやってもっともらしく太宰治の『人間失格』を引用したけれど、実は巻末の解説もまだ読んでいない。とりあえずなんの先入観も入れずに感想を書いてみたかった。
太宰治を読んだのはこれが初めてだし、というか国語の教科書以外で日本の死んだ作家の小説を読んだのもこれが初めてだ、少なくとも記憶上は。死んだ作家というのはつまり日本の近代小説だとかそれ以前の古典文学だとかそういうものを指しているのだけれど、それこそ先入観で、「昔の日本の小説は文体が今と違って読みにくいから嫌だ」みたいな印象で今までずっと倦厭していた。でも村上春樹が言うように(村上春樹とか重松清とかは読みやすいから何冊か読んだことがある!…っていうあたり読書経験の薄さが露呈している)時の洗礼を受けてそれでもなお読み続けられている作品はそれだけ人間の普遍的な部分に詰め寄ったものであるということだと思うし、実際『人間失格』の心情描写の多さは私の忙しい思考には合っていたように感じたので、これから近代小説にも手をつけ始めてみようと思う。今まで倦厭しててごめん。


多分数年後にこのブログ読んだら、知見の浅さや自己陶酔感にドン引くんだろうな。。。


おわり
2021.09.09

about my spring -私の春について。

これはこのブログの説明文(詳)です。

about my spring

ここでいうspringとは、私の内面、私の持つ自我、感性、軸として据わっている思考、そういうものを指しています。
なんで春なのかというと、これは感性的な話になってしまうんだけど、私にとってのわたし(先程述べたspringのこと。実際に行動を起こす主体である、身体としての私は「私」で、その「私」の内面にある魂みたいな、目には見えないけれど私を突き動かしている絶対的な感性みたいなものを「わたし」と書き分けることがよくあります)は本来、春みたいに穏やかで、安らぎのある景色な気がするから。私が穏やかな人間ですとか言ってるわけじゃなく、なんとなく、でもまあ荒野みたいな魂の色はしてないかなと思う。私にとってのわたしとは尊くて、何者にも踏み入られていない神聖な絶対領域としての憧れ。そういう価値観だから春。あと春が好き。本名も春っぽいしパーソナルカラーもイエベ春なので。あんま関係ないけど。

で、このブログは人に見せるものじゃなく(でもまあ多少の承認欲求で、こうして公にアップロードしてはいる)自分自身の思考の記録用として使っていこうと思っていて、私の思考というのは常に自分の自我や人間の普遍性みたいなものを追い続けるうえでの思考ということだから、about my spring 。
私の春について、考えることを主とするブログです。


おわり

映画レポ 〜『アリー・スター誕生』ほか2本〜

私は言語化することが好きなわりにめんどくさがりが勝ってなかなか長文を書くことをしないので、文章を書く練習として読んだ本や映画などの感想をちょっとずつでも書いていこうと思います。
最近Amazon prime videoで三本の映画を観たので、今回はその感想を軽く書きます。私は吹き替えが苦手なのですべて字幕で見てます。
①アリー・スター誕生(A Star Is Born)
愛を読むひと(The Reader)
最強のふたり(Intouchables)

※ゴリゴリネタバレなので注意


①アリー・スター誕生
面白かった!3本の中では一番心に残ってる。オセフンくんとすほちゃん(推し)が良かった、インスピレーションを受けたと言っていたので観たいと思ってたやつ。なんか、たしかに、KPOPの第一線で活躍し続けてる、正真正銘”スター”の彼らには共感しやすそうな作品だなあと思った。作中でも、これ一般人の私にもなるほど…と思えるけど、彼らにとったらまさに胸の中央に投げかけられたような気持ちになるんじゃないかなあと邪推できるようなセリフがいくつかあった。
ブラッドリー・クーパー演じるジャクソンはアル中の(ついでにドラッグも入ってる)有名ミュージシャンで、そんな彼はある日偶然訪れたバーでアリー(レディ・ガガ)に出会う。アリーは歌手になる夢を諦めかけていたけれどジャクソンはアリーの歌声を見初め、彼のライブの舞台にアリーを上げて歌わせたことがきっかけでアリーは一気にスターダムを駆け上がっていく。
物語の軸は急速にスターになっていくアリーとその陰でどんどんアルコールに溺れ落ちぶれていくジャクソンの、いわば明暗のコントラストで、二人の交わりと変化が一番の着目ポイントな気がした。アリーは一見輝かしい花道をまっしぐらで進んでいるように見えるが、ジャクソンがたびたび指摘していたように以前の彼女のスタイルから遠ざかってしまったような面もあるだろう。売れていく中で、自分のもとあった信念(アリーであれば歌、ジャクソンがアリーのデビュー(だっけ?)の際にアドバイスしたように「魂の歌を歌え」といったような点)を失っていき、マネージャーの指示で振り付けのある曲をコンセプト通りに着々とこなしていくようになる。映画の序盤でアリーは「私はダンスより歌よ」と言っているのに、デビューしてアルバムをバンバン売り出すようになってからは抵抗なくダンスの練習にも励むようになったり。作詞作曲の才があり、ジャクソンのライブで一緒に歌ったアリーの『shallow』という曲は心に深く響く普遍的な歌詞だったのに対し、デビュー後の曲は他の女性シンガーにもありがちな(?)ちょっと安っぽい歌詞をしていたり。そういう変化が見て取れる。ジャクソンは知り合った頃の、ダイヤモンドの原石のようなアリーの持つエネルギーや多才さに唯一無二の魅力を感じたのに、スターになってそれが失われていくのを見てがっかりしただろうし、憤りとか寂しさもあっただろう。ジャクソンはそういう忘失を危惧していたからこそ、アリーに魂の歌を歌い続けろと話したのである。そして自分の望まない形で有名になっていくアリーとは対照的にどんどん落ちぶれていくジャクソンの姿はかなり痛ましかった。同時に、芸能界ってこういう場所なんだろうなって。容赦の無い大衆と、怒涛の叫声の渦に巻き込まれながら、それでもその過酷な暴風を凌いで立ち続けなくてはいけない。それに耐え凌ぐ脚力を得るために、一体いくつ捨てるものがあるのだろうと考えてしまった。オセフンがこの映画を100回でも観た(もちろん誇張だけど)と言っていたのはそんな渦中を必死に生き抜く彼らに深い共感があったからだろうし、あの映画に覚える共感というものは、私にとっては少し怖く感じる。

『魂の底まで掘り下げなきゃ長続きしない。歌は正直なものだ。ウソは見抜かれる。取り繕えば、今はよくてもいつか客は離れてく。』
『だから手放すな。”なぜ”とか”いつまで”と心配せず歌えばいい。ただ魂の歌を』

アリーがファーストアルバムを出す直前にジャックが言った言葉。この映画の監督はジャック役も務めたブラッドリー・クーパーなんですが(すごい!)ちょうどアメリカの芸能界のど真ん中に生きているからこそのこのセリフ、このリアルさ…と思いました。

『この前バーで若者が彼の歌を歌ってた。あちこちでも聞く。最初は腹が立った。』
『多分思ったんだ、ジャックを知らないくせにと。本当のあいつを。だがある時から納得してる俺がいた。俺たちがやったことも無駄じゃなかったと。』

ジャックの兄がジャックの死後にアリーに言った言葉。これは、アイドルを推している私にもかなり響いた気がします。所詮オーディエンスは虚構としての彼らしか見えていなくて、それをこちらが全て知っているように勘違いするのは愚かだし、また彼らもこういう消費の対象である自身をある程度認める覚悟が必要なんだろうなと。その覚悟ってすごく怖いものだと思います。何でもかんでも自分の体験に重ねて共感するのはどうかと思うけれど、私は人に自身を決め付けられ、確定づけられる感覚がものすごく怖くて、過度に拒否感を抱いてしまう人間なので、心身の不可侵性が常に危険との瀬戸際に晒され続ける彼らのことを考えると、胸が痛くなります。

『ジャックが言ってた、音楽はオクターブの12音、その繰り返しだと。どの曲も結局は12音の繰り返しだ。永遠にな。アーティストの作る世界は12音をどう見るか、それに尽きると。』

こういうのは、パフォーマーとかアーティストとか、音楽を通して何かを表現しようとしてるオセフンにはより響くものが大きそうだな〜って思いました。名言がいっぱい。


『アリー・スター誕生』は、スターを中心にその生き様や葛藤を描いている映画なので、なんというかパワーがすごい。本当に表現者っていうのは、自分自身の魂や、精神を見つめ、削り続けて生きているんだなっていうのが、作品全体を通して強く感じられた。もちろん役者はみんなアリーたちのように表現者を生業としているわけで、当事者である彼らがこういうのを演じるとその緊張感に思わず震撼してしまう。
映画の流れとしては、一般人のアリーがジャックの舞台に上がってスターの芽を出すまでは長く描かれている割に、途中の〈スターダムを駆け上がるアリー〉と〈その裏で落ちぶれていくジャック〉の対比・確執の場面が短くて過程部分の描写が薄く感じたので、そこもじっくり観たかったなと思った。でも、アリーのスター人生の始点は〈ジャックに手を引かれ舞台で一緒に『shallow』を歌った〉ところであり、対してジャックの人生の終点は〈アリーにライブで一緒に『shallow』を歌おうと誘われた〉ところであるというのが対比になっていて、そこは面白かった。実際、ジャックはライブには行かずに自殺してしまうんだけど、アリーとジャック、相手の手を引く立場が最後では逆転していたのが、残酷ではあるけれど二人の間における変化の顛末を綺麗に表現できていてよかった。(と私は思いました)

そうはいってもやっぱりこの映画の最大の魅力というのは、「「「「歌」」」」に尽きると思う。本当に本当に歌、すごい。主演の二人の表現力が尋常じゃないし、レディ・ガガが歌うシーンはまばたきもしたくないと思うくらい魅了された。正直洋楽全く興味なかったし、レディガガに関しては真っ先に出てくるイメージは瞼に書いた目ですってくらい知らなかったんだけど、この映画を見て震えた。このパワーをこの魂の歌を知らないまま死ななくて良かったと思うくらいには良かった。もうこれだけで見る価値ある。一番最後のアリーの表情、走馬灯に流れてきそうなくらい衝撃すごい。
ジャックの飲んだくれが酷すぎて、こんなジャックを最後まで許して愛し続けるアリーなぜ…?とか思っていたんだけど、ジャックはアリーの人生を拓いた、ある意味では第二の生みの親的な存在でもあるのかな。そして最後の、ジャックがアリーに書いたラブソング聴いたら、ジャックがアリーにどれほど心から惹かれ、愛していたかもわかってしまった。あんなラブソング書けるの、本当にすごい。すごいしか語彙出てこない。絶対聴いてほしい。
なぜ二人がこれほど惹かれ合ったのか、二人の関係性の変化と対比、そういうのがもっと見たかったな…と思ったのは失望ではなく、この映画に魅せられたからこその欲でもあるのだと思う。


愛を読むひと

これに関しては、深かったけど、アマプラの一番上に載ってる評価が結構多くを読み解いていて、私の言えることは何もない(笑)
教養とは、教育とはどういうものなのか、をじわじわと考えさせられる話。ハンナが刑務所で文字を覚え、書物を読めるようになってやっと、自分の犯した罪の重さを認識できるようになったのだ、という考察には納得させられた。適切な教育がなされず、道徳的な理性が育たなかったハンナには絶望感に近い悲しみを覚える。教会で子供達の賛美歌を聴きながら泣いてたのも、彼女にはそうするしかできなかったんだなと思うとなんかほんとに絶望的な気分になる。文字が読めないことを強く恥じている姿、なぜ裁判にかけられているのか、自分の犯したことはどういう意味で罪深いのかを理解できない(人を大量に殺してしまったことの罪悪感は持っているけれど、感覚だけで、理性的な詰め寄りはできない)表情、そういうのを主演のケイト・ウィンスレットは上手く演じ切ってるなあと思った。なんの予備知識もなくただの恋愛映画だと思って観たから、ホロコーストに絡められたもっと多角的な映画だと知って驚いたしその分満足感がある。映画初心者だから、映画ってその国の価値観・歴史観をモロに反映するんだなと知って感心してる。これからもいっぱい映画を観ようと思います(浅)
とにかく、良かった。名作ってこういうもの…という感じ。


最強のふたり

三本の中では一番見応えが薄かったなとは思った。でも楽しく観れるし、〈境遇が全く違うのに相性の良いふたり〉みたいな気分の良くなる友情物語好きな人にはいいと思う。実在するふたりを基にした映画らしく、実在の”ドリス”であるアブデルさんはアルジェリア人だが黒人ではなくアラブ系移民(らしい)。なんか、フランス人の価値観的に、アブデルさんのポジションをドリスみたいなアフリカ系黒人に変えて描いたのは、”最強の友情”と銘打つ上で効果的だからだろうかとか思った。白人と黒人の間の絆というのが”友情”により説得力を持たせてる?みたいな…だとしたらちょっと皮肉っぽいよね。


だんだん疲れてきて書くのがあからさまに雑になってしまいました。頑張れ。
本の感想も書こうかと思ったけど何も考えられなそうだから次に回します。
体力つけたいし、遅筆直したい。もっといろんな映画や本に触れなきゃと思うんだけど、なんか、数が膨大すぎてその中から選ぶのすごい疲れる。どうせ私は一生かけてもこの世に存在する本や映画や漫画や音楽や演劇のすべてに目を通すことはできないし、そんなのどうしたって仕方がないことなのに無力感を感じる。
そして書いたあといつも自分の知見の浅さや言語運用能力の無さに悲しくなる。
あ、あと映画についてゆっくり考える前に他の人の感想や考察をみるのはやめようという教訓を得ました。他の人の意見を摂取するとそれ以上のことを考えづらくなった。
これはSNSにも同様のことが言えると思っていて、SNSって基本的にはピュアな情報じゃなくその情報に他人の意見や感情が上乗せされた状態のものが流れてくるから、その危険性なんかに気付かずにSNSを情報媒体として扱っていると自身の感覚や思考というのがどんどん他者のそれに侵食されてしまいそうな気がしてる。実際同調を生みやすいシステムではあるしエモとか映えとかそういう量産的な価値観が生まれたのもそういう特徴によるものかなって。
話が飛びまくるの、ADHDみが強すぎる。。。
もうほんとにおしまいです。


おわり