about my spring

思考の通過点 / 19歳

現在進行形で大学受験失敗してる高校生による不毛な叫び

学校やめたい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

まじでさ、めちゃくちゃ学校やめたい。超やめたい。はあ、やめたいなあ。もうさ、土になりたい。なんで人間に生まれてきちゃったんだろう。いやいいんだけど、別にさ。生まれてきてしまったもんは仕方ないやん。
脳直で打ってるし下書きもなんもしてないからツイートで呟いとけよって話なんだけどたまにはこんなクソッタレの投稿もあってもいいかなって。

模試受けないのも毎日遅刻してるのとかもマジで終わってると思う。普通こんな怠惰な高校生いない。今日担任にこのままじゃ単位が危ないって言われた。英語の単位がまずいらしい。え、もう、学校やめたい。この思考回路になるのがもう人間おしまいすぎてやばい。自分、なんで生きてんの?もう土に還りなよ。私もできることなら土になりたい。その方がみんなにとってもいいと思う。担任の貴重な時間削ってまで単位の計算させてるのも大して勉強してなくてテキトーに受けてるだけの模試に一万近く親に払わせてんのもマジで申し訳ないし。今日先生が自分に厳しくって言ってた。私は自律性というものが本当にご臨終になっている。自分に厳しくってなに?具体的にどうやったらできんの?どういう精神状況でみんな日々をやり過ごしてるの?毎日そんな堅実に生きてるの?わからない。私がおかしいのか、何がダメなのか、わからない。友達の体に意識だけ乗り移って1週間くらい過ごしてみたい。みんながどういうふうに身体を動かしてるのか知りたい。


私は精神科でADHDの診断をされていて、既に薬も処方されてて、毎週クソ高い医療費(親金で)払いながら飲んでる。なんのために?普通に生きたくて。自分が信頼できなかった。何もできない自分が。みんなはできるかできないかじゃなくて、やるかやらないかだって言う。でも私にはできるかできないかだった。何も思い通りにいかない。自分の構想がダメなのか、それとも構想は普通だけど身体の操作方法がダメなのか、操作方法じゃなくてそもそもの操縦機能が故障してるのか。
ADHDという診断は、端的にいえば操縦機能の欠陥に原因を見出す。
努力不足だといえば構想の不備だし、甘えと呼べば操作方法の過失である。


ADHDの診断をもらったけど半信半疑だった。そもそもこういう診断は保身とか精神安定剤くらいにしかならないというのは今でも思ってる。そもそも今の時代症状に病名をつければなんだって病気になる。人間の行為思考を神経が決定してるなら私が私であなたがあなたであることだってあくまで物質的な反射の連続の産物でしかなくて、そしたら責任はどこに依拠するのか?だから神経科学と倫理学の交錯地点を悩める当事者として知りたいと思った。自由意志と決定論、責任の場所、違うこういう話をしたいんじゃなくて、難しい話をしてるフリをしたいんじゃなくて、ただ私はわからない。


精神科の先生が、甘えじゃないと言っていた。そこまで自分を甘やかせるのが才能だって。普通の人は自分のことをそこまで甘やかせないからって。少しして理解した。つまり過程を辿るんじゃなくて、今こうして精神科医にかかってること、甘えか否かでここまで悩んでいること、この現状、この結果こそ全てだと言いたいらしい。なるほどこれはわかりやすかった。そして辛く思っている当事者としてはかなり救われる言葉だった。私は私が普通じゃないのか、それとも普通であることを怠っているだけなのか、それでずっとぐるぐる悩んで考えていたけれど、もし私が普通だったとしたら、そこまで悩まないはずだって。
(ここでの「普通」っていうのは、健常者=普通、発達障害=普通じゃない、と言っているわけじゃなくて、もっと個人的な、私が私以外の人間たちとの間に感じる差異だとか、乖離みたいなものを普通/普通の否定(つまり普通じゃない)という言い方で表現しているだけです。決して差別的な意味を含んでいるわけじゃなくあくまで私の生きていかなきゃいけない小さな世界と狭窄な価値観を考慮した上で自分の納得できるラインとして行った線引きです。それも不明瞭で不確実で曖昧模糊な区分けです)



結局上手く生きるってなんだろう。
精神状態が快方に向かって、最近色々冷静に考えられるようになって(るのか知らんけど)出した結論は、私が今懶惰に嘆きながらも退嬰に留まったままなのは、環境が自分の特性と上手く作用していないからだということだった。高校卒業した後一年間、一人で何にも縛られず自分がどういう環境なら頑張っていけるのか模索するつもりだった(というか今もそのつもりだけど)。とりあえず卒業くらいしとこうと思ってた。大学受験っていうレースから離脱(一時脱落?)したことで真っ暗闇だった視界が開けたし、精神も安定した。でも最近願書とか、現実的な手続きの話になってきて、また今日メンタルが逆戻りした。棄権しようと審判に申し出たら、却下されてまたレーンの上に押し戻された気分。まあでもさ、言ってないのが悪いわ。担任とか親にちゃんと自分の意向(一年間自分探しの旅に出たいってこと)を説明してないのがダメだから、言うべきだし、近いうちにきっと言うんだけど、口頭での説明が苦手すぎて多分言いたいことの五分の一くらいしか話せないと思うし、そういう説明下手な自分が嫌で、落ち込んで、伝わらないのが悲しくて、理解してもらえないことに孤独感を感じて、なんで自分こんな人間なんだろうどうしていつもこうなんだろうああ生きづらい生きづらい生きづらい…(この作業をn回繰り返す)になるんよね。マジで、生きるの向いてない。なんでこんな人間なんd(以下略)


学校に行く意味がないと思ってた。欠席が続いて、このまま行かなくなってフェードアウトするかもしれないと思った時もあった。正直それでもよかったけど、それでもいいとか思えるのは私だけで、周りはそうじゃない。
学校に行く意味を考えた。積極的理由ではないけど、考えついたのは以下の三つだった。
・・・・・
①友達と話すのが楽しい
②登校時と授業中はマジで一生憂鬱だしずっと学校辞めたいしか考えてないけど、放課後は授業中に溜め込んだストレスとそこからぐつぐつ煮え立った好奇心(ストレスを感じるとそれが生成される理由を考える過程で新たな疑問や興味が生まれたりする)で思考が活性化される
高卒認定試験受けるのダルそう
・・・・・
人間失格と一緒の棺に入れて火葬してくださいとかマジの目で言ってた頃は、人間不信にまで陥っていたので①はむしろマイナスでしかなかった(友達に会うの怖かった)けど、今は治ったから正当な理由になり得る。やっぱ一人で閉じ籠るよりはたまに喋って笑顔になった方が、医学的にも良いって聞くし退学したら友達とよそよそしくなっちゃうかもしれんし。
②は欠席した日結局ダラダラ過ごすことが多かったから、まだ学校行った方がマシかもって考えだけど、正直学校辞めたらそれが危機感とか「流石にやらないとまずい」みたいな意識に繋がりそうな気もする(あと今は薬のおかげで読書できたり、ダラダラしすぎなくなったりしてる)から実際どうなんだろう。やっぱり学校行ってる時間つまらなすぎて無駄やん・・・・と思うし行くだけで体力と時間が奪われるし、学校の時間に合わせて生活習慣をコントロールするのができなすぎるのにやらなきゃいけないから今不毛な体力とメンタルを削ってる感じしかしてない。
これが高二だったら確実に学校辞めてたけどゆうてあと一ヶ月の我慢だし、ってことでの③、以上。



ちゃんとひとつの記事にしてまとめるつもりだったけど殴り書き始めちゃったし、ここで今考えてる今後の指針をざっくりと記そうと思う。
前述もしたけど、高三は、様々な要因により普通の大学受験勉強は大コケ&17年の人生の中で一番自分について、世界について考え込んだ一年だった。で、現状、思考や挑戦の障害になるもの(学校)がデカすぎて、まだ今年一年で浮かび上がった自分の弱点・課題、自分の生き方の哲学について、全然考え切れていない感覚がすごくある。

〈とりあえず受かりそうな大学進学して、大学生になってから色々考えたら?〉

もうこの際恥を忍ばずに言ってしまうと、私は早慶以下の私立大学なら行かない方がマシだと思ってる。(いやお前の成績と勉強態度で何言ってんの?っていうツッコミは私が一番思ってるから許してほしい。こういうマジで頭おかしい思想を中身も伴わない状態で抱いてしまう自分のヤバさに悩んでるみたいなとこあるからむしろ助けてほしい。)
理由は、周りの人間のレベルがある程度低くなるのは避けられないから、あと高い学費払ってまで行く魅力を感じないからetc。それに、大学っていう新たなコミュニティに合流することが、私の哲学を探る上で今のところまだ邪魔になりそうだと思う。どこにも属さない自由な身体と(正確に言えば現代社会で生きている以上何かしらの共同体には属していることになるけれど)、野放図に広がる空間と選択肢、融通の効く一年という期間と、反対にそれらから生じる焦燥や危機感・・・・いろんなもので雁字搦めに縛られて、今私の体内では無防備で粗野なエネルギーの塊が燻っているみたいな状態だけれど、完全に自己責任の世界で自分がそれをどこまで引き出して、上手く扱って、解していけるかに興味がある。典型的な大学受験プランをこなそうとして大コケした完璧主義ADHDとしては、ここで大学受験に負けを認めて妥協するよりは、自分が勝てるやり方を見つけて、乗り越えたいって思う。少なくともそう思う野心はある。その作業をすることで、自分がこの一年で感じたたくさんの違和感、社会との足並みの不揃い感、そういうのをより明確に理解したい。そのためにはある日突然辺境の地で自給自足生活を始めるかもしれないし、寺に入って修行僧(尼?)になるかもしれない。ただ、これ(自給自足とか尼とか)については今のところ保身で言っているに過ぎない。

〈結局また怠惰な自分に甘んじて、口だけで終わるんじゃないの?〉

正直これが一番の懸念で、自分に実績という点での信頼性がマジで皆無なので、もし今と何も変わらんくて結局自分はただの怠惰な人間のクズでした、だったらどうしようって思う。すごく怖い。でもここでは、そうなることを防ぐために、そもそも私はなぜ「一年間自分探しの旅をする」と考えついたのかを順を追って記そうと思う。この世の全てに対して信用を欠いていて、目の前には無数の選択肢で埋め尽くされた暗がりしか広がっていなくて、五里霧中の思考、無秩序で混沌に支配された決定能力、そんなどうしようもなく不安定な現状の自分でさえ、これは永遠の真理として自己の中に据えておけるとほぼ確信していることがあるから。それをこうして書き留めておくことによって、未来の私が同じように道に迷いかけたとき、そっと腕を引いてあげられるひとつの力や道標にでもなったらいい。


もったいぶって語ってしまったけれど、単刀直入に私の中の哲学(もちろんそれはまだ未知で、未開の地、一生かけて探っていくような終わりの見えない精神活動にさえ等しい)を貫く現時点での絶対的な真理は「より良く生きる」である。

まあ単純な話だけど。私は時に怠惰に身を任せてしまうし、いっそ退廃に身を投じようと思い切ることだってあるけれど、結局そこでいつも踏みとどまったり、そもそもこうやって「なぜ自分は普通になれないのか」「上手く生きられないのか」みたいな悩み方をしたりするのは、大大大前提として自分が「より良く生きたい」と思うからである。不安定な中でもこれは一生変わらない、おそらく。なんで空や太陽や波の音、夕日が海へ溶けていく様に心を奪われるのか、どうして目の奥が綺麗な色をしてる友達とできれば長く一緒にいたいと思うのか、寒そうな指先を温めてあげたくなるのは、きれいな音楽を作る彼と心を半分こにしたくなる、ちっぽけだけどそれがすべての取るに足りない小さな世界、心の震えを分け合いたくなる、そこに愛があると信じたくなる、信仰、そういうのは究極的な意味で自分の中にある魂を、なるべく優しくて、穏やかでそして暖かい、美しい場所に近付けておきたい・・・つまり自分の魂が「(あちらが)より良い」と共鳴する声を聞かずにはいられない衝動、そういう真理に裏付けされた動きだといえる。正直もう、この気付きだけで十分、(退廃的方向に振り切りやすい)私の慰めや自己啓発になりうるのである。一時期私はこのまま自分の懶惰や不安定な精神が最終的に自分自身を滅ぼすことにしかならないんじゃないかと思って本当に文字通り目の前が真っ暗になっていたけれど、自分のそういう自己破壊的特性よりもさらに高次元で自身の生命を向上させたい欲求が存在していることを解して、めっちゃ安心した。
結局何が言いたいかよくわかんなくなってきたんだけど、結局私はどう転んでも自分の理想に近づきたい衝動に従って動こうとするわけで、そのことさえ見失わなければ何かまた途方もなく強固な壁にぶち当たったときでも選べる中で最善の打開策を模索するのだと思う。だから、最も恐れていた自己破壊の予感に怯えて萎縮する必要は少なくとも今はない。


苦難を「楽しい」って思えれば、自己破壊なんて考えることもなくなると思う。そこで第二の真理、私は常に学び続けることが使命である。

この一年で、マジで前代未聞の気鬱に陥ったし、めっちゃぐるぐる考え事してたけど、結局行き着いたのは「学ぶことで自己探求の道が開かれる」ということだった。
例えば私は人為(あるいは相対性)と自然(あるいは絶対性)の観念について強い憧憬を抱いていることがこの一年でより明確になった(※1)。以前からその布石的な経験なんかはあったけど、きちんと二項対立として捉えるようになったのは今年のわりと大きな実りであるといえる。この二つの真理、こんなんもう紀元前から名だたる哲学者たちが人生かけて追い求めてるようなテーマだけど、やっぱり私が「より良く生きる」ためにはこの命題(人為・人間とは何か、自然とは何か)に自力でアクセスしてみる必要があった。私の生きづらさとか、生きる意味、どうやって生きるのが良いのか、そういう疑問や葛藤は突き詰めて考えてみればこの二つの概念が精神的あるいは物質的に(もっといえば社会的にも)競り合う狭間での相克から生じているように思えたからだ。あとは単純に興味の問題もある。なんで綺麗に感じるのか、美的感覚ってなんだろう?みたいなのから、宇宙はなぜ誕生したのか?数字とはなんだろう?永遠とは時間とは空間とは、そういうのまでアホみたいに考えてるから(マジでアホ、一生わからん)、そういう興味をちょっとでも満たしたらそれはささやかな幸福感につながって、それはつまり自分の人生を「より良く生きて」いることになるんじゃない?あと私が人生で一番幸福を感じる瞬間が、美しいものを享受した時で、私にとっての”美しい”の出発点は必ず自然(これは美しさの種類や発生源と同様に、美しさを受け取る自分側の受容地点での精神の衰微な揺らぎみたいなものについても”自然”に則したものであるといえる。もっと厳密にいえば発生源とはどちらの側にあるのかも議論の余地があるけれどマジで哲学になっちゃうのでここでは言及を控える)

まずこういう議題について、先代の知識の蓄積や成果を受け取るために勉強が必要。そして自分個人の問題に還元させる、さらには将来的展望や予見を持つためにも一生をかけた学びがきっと必要で、結局これから先私がどういう進路を辿りどういう人生を選択したとしても、私が私である限り、この忙しない上に過敏な脳みその持ち主でいる限り、知る・感じる・考えるそれらの積極的行為は終着地点のない使命的行いとしてあるのだと思う。私の生きる意味(というか死なない限り「より良く生きるため」にやらざるを得ないこと)は今のところ「自分が何者であるか知る」「自分がどうしたらもうすこし上手く生きれるのか方法を探る」ことであり、それと知的探求(または感性的体験)は三位一体なのではないかと思う。



話が本当に二転三転としすぎてるんだけど最後にピーター・シンガーの話だけする。最近哲学に軽くハマってそこで見つけた、現代哲学における最も著名な哲学者、倫理学者の一人です。立場としては功利主義をとっていて動物の権利、貧困問題の解決などに関して一石を投じており………とまあこうやって偉そうに書いてるけどまだシンガーの著作も届いてなくて(Amazon、待ってるよ。)彼自身の主張はネットでちょっと浚った程度なので、また本とか動画とか記事とか見てブログにまとめる日が来ると思う。(そう信じる)


なぜ私が彼の名前を挙げてわざわざこの記事でネタにしようと思ったかというと、彼の思想が私の悩みにクリティカルヒットで、聞いたとき本当に目から鱗だったから。

シンガーは問う。
「あなたは道を歩いていて、池で子供が溺れているのを見つけたとする。周囲には自分以外、その子供を見ている人も、助けようとする人もいない。あなたはきっとその子供を助けるだろう。たとえそのとき着ていた高級な服に汚れがつくとわかっていても、このあとすぐどこかに行く予定が迫っていたとしても。」
「でも多くの人は、必要のないもの、贅沢品やペットボトル、そういったものにお金を使う。そのお金で、マラリヤで死にかけの貧困の子供達が多数救えるにも関わらず。この二つに倫理的な違いはあるだろうか?」

TED Talksでシンガーがこんなことを言っていたのが印象深い。以下引用。

Does that remind you of a consumer lifestyle, where you work hard to get money, you spend that money on consumer goods which you hope you'll enjoy using?But then the money's gone, and you have to work hard to get more, spend more, and to maintain the same level of happiness, it's kind of a hedonic treadmill. You never get off, and never really feel satisfied. Becoming an effective altruist gives you that meaning and fulfillment. It enables you to have a solid basis for self-esteem on which you can feel your life was really worth living.

youtu.be


シンガーの示唆する決して満たされない欲望、この世界的に見れば富裕といえる日本に生きて、心当たりのある人も多いのではないか。物欲、承認欲求、個人的な話をすれば食欲に関しても、私は食べても食べても満足できない(正確に言うと「食べたいのに、食べたいと思っていたはずのものを食べると出費と満腹感で逆に気分が悪くなる」)という気味の悪いジレンマに苛まれていた。SNSが当たり前に日常の一部と化している現代の若者の中で、承認欲求たるものは異常なほど増幅しているように思う。私も一時期、というか今に至っても、そういう”決して満たされない欲望”が生み出す不毛な疲弊から完全には己を断ち切れていない。
これはさっきの自然と人為の話にも還元できる倫理だと思うけれど、結局私の精神を摩耗し、疲弊させてきたものというのはいつもこういった人為、即ち人間の生み出した社会構造(競争社会、優生思想、戦争、貧困、差別格差偏見誹謗中傷………etc.)だとか物理的要素(都会に聳え立つ灰色のビル、自動車の排気ガス、絶え間ない走行音、アスファルトに固められた地面、都心の喧騒、溢れ返った駅構内のゴミ箱………etc.)、あるいはそこから副次的に発生する人間の悪意だった。
功利主義の理解はまだまだ浅く、これが本当に自分の適切な指針として立脚してくれるものであるかも定かではない。それに関してはこれからまた調べたり、実践したりする中で吟味していくとして、ひとまず私の言語化できない違和感、茫漠たる懊悩を「不毛である」と一刀両断してくれたその声を、こうして得ることができたことに確かな意味があったと思う。

あと、思ったのは、私みたいな思考がバカみたいに忙しい上にとりとめのないそれがそこら中に散在して整理できなくなるポンコツとか、あとはその時々によって言動がコロコロ変化してしまう一貫性皆無な人間(※2)にとっては、「〇〇主義」みたいな、つまり絶対の真理信念を前提に体系化した規範原則を遵守する態度を取るというのは、判断や行為に一貫性を持つという目的(私にとってそれは「生きやすくするための手段」と同義)のもとでは非常に効果的なんじゃないかということ。これは本当にデカい。何に対しても慎重に考え込む癖がついてしまってから、どんな判断にも鈍重な”不確実性の靄”のようなものがつきまとうようになって、自分の一貫性の無さ(感覚で動いたり、思考が忙しかったり、自律性の無さだったり…による)から来る自己不信も災いして、本当に身動きが取れなくなった。それがもしこういう手立てによって解決できるならそれこそ目から鱗の発見である。



さて、本当になんの話をしてるんだかわからなくなったけど、とりあえず最近燻ってた考えの断片くらいは吐き出せた気がする。乱文乱筆、語彙の欠乏もひどくてとても人に読ませられるような記事じゃなくなったけど(毎回のことながら)思考の通過点を言語化するという当ブログの目的はそれなりに果たしているんじゃないかと思う。知らんけど。こんな必死に書いててさ、数年後には考えや身分もまた刷新されて、随分頑張って生きてたんだな自分、くらいのノリで振り返れるようになればいいよね…。なるのかな。日々将来が不安で、そのことを考えると泣きそうになるけど、明日の英語の単位がやばいので、とりあえず朝早く起きられるように頑張ろ(現在時刻 AM3:10)(死亡フラグ

もう完徹しよかな…




・・・・・・

注(クソどうでもいい内容だけどかつて書いた文章を少しでも消化したいから、一応載せる)

※1 自然と人為について、たしか自分の中で「悩みの本質に据わってたのはこれだったのか」と気付きを得たのは、日々の思索からではなく小説(らしきもの)を書いている過程だった(!)多分夏休みとかに、何も考えずにただなんもしないよりはマシくらいな気持ちで書いてたやつを、後で読み返してそういう傾向になっていることに気付いた。
結局小説(らしきもの)は全く書き切らなかったんだけど、その描写をちょっと抜粋する。(なんかこのブログ多分ここまで読む人いないだろうなという開き直りがあって、マジで羞恥とか湧かないわ。完全に日記の気分で書いてる)



雪が似合う人だった。その人はいつも雪の中をやってきた。でも今考えてみれば、それは逆だったのかもしれない。きっと彼が雪を連れてきたんだろう。彼の背には終わらない冬があって、凍てついた空気が張り込めて、それはいつも孤独と共にいた。
彼は僕にとっての救世主かもしれなかったし、はたまた僕が彼にとっての救世主だったのかもしれない。とにかく僕らは、互いに互いの存在を知り合う、そのことだけが必要だったのだ。
君はそこにいる。僕はここにいる。それだけがすべてで、ただひとつの救いだった。

・・・・・・・

目を開けたら、真っ白な世界が広がっていた。
それでもここが、自分の生きていた世界とはちがう何かであることは、直感的に理解できた。一面雪に覆われた平原と、平原をたどった先に忽然と広がり始める深い針葉樹林。ある境界線をまっすぐに引かれて、その線からこちら側は平原、向こう側は木々の住処、そうやって決められているみたいに、ある一直線から唐突に森林が始まる。なだらかな平野の稜線や、高さも葉の深緑さえ揃った森林や、なんの濁りもない積雪の白、この世界を構成しているものは全て秩序立っていて、なんの不自然もなく単一的であるように見えたのに、それでもこの世界はなんだか、おかしかった。垂直と並行の理性しか持ち合わせていないここは、むしろ狂っていて、歪んでいて、ねじれているのかもしれなかった。

・・・・・・・

はらはら、白い雪が舞い落ちているのに気がついて、そう呟いた。今年初めての雪なんじゃないだろうか。この寒さだったら明日にでも初雪だろう、と、昼間に父さんが言っていたことを思い出す。
僕は何か探している。きっと何かを忘れている。思い出さなければいけない、いやもしかしたら、もうすでにそれは、僕のなかにあるのかもしれない。それはなに?僕はどうしてこんなに、胸が苦しいんだろう。

ところどころにシミがついたクリーム色の壁紙、角が削れて色褪せた勉強机、埃と古くなった洗剤の匂いが混ざるザラザラなシーツ、統一感のない高さと厚みで並べられたCD、本、それから雑誌。
様々な要素が込み入って雑然とした部屋の中で、壁掛け時計の秒針がトクトクと音を立てながら一定に時を刻む。
僕は息ができた。当たり前のように。この世界は混沌としているように見えて、それでも自然なのだ。

そして僕は知った。
君は僕だったのだと。




自分の書きかけの小説の解説をするってゆーマジでめちゃくちゃ寒いことをするので、さすがにこれはいつか羞恥で消すかもしれないんですけど、未来の私が色々忘れた時のために、未来の私に向けて説明する。
ストーリー的には、「僕」が両親の不和や引っ越しなんかに疲れてベッドの上で寝落ちしちゃって、起きたらよくわからん雪山?雪平原?にいて、そこで雪の妖精みたいなのと出会って仲良くなって不思議な時間を過ごした後にまた寝落ち。起きたら普通にベッドの上に寝てる状態で、アレ?夢落ち?てなってたら外で初雪が降り始めてて、真理に気付く僕。とゆーまあ安直な話でした。ちゃんちゃん。
つまり僕は現実世界、人為にあふれた場所で生きていて、反対に雪の妖精なるものはある種観念的な、無為自然の世界で生きてる、いわば僕の魂の擬人化だった。本来人為は混沌である自然の状態を秩序立て、分節するはずのものなのに、僕は現実世界の過剰な人為の作り込みみたいなものに辟易としていて、人が利便性なんかを求めて後先考えず沢山モノを作ったせいで、むしろモノにあふれたこの世界はカオス(=混沌)と化してるんだ!っていう。逆に、雪の妖精が生きる自然の世界は、「この世界を構成しているものは全て秩序立っていて、なんの不自然もなく単一的であるように見えたのに、それでもこの世界はなんだか、おかしかった。垂直と並行の理性しか持ち合わせていないここは、むしろ狂っていて、歪んでいて、ねじれているのかもしれなかった。」言いたいのは多分、自然の世界は人為を介さないという点で混沌なんだけれど、実は自然の方がずっとシンプルで、整然としていて、簡潔であると。本質は実は極めて単純なものなはずなんだ、と私自身考えているのかもしれない。でもその整然さが、ごちゃごちゃした現実世界に生きる「僕」にとってはある種の脅威や畏怖さえ抱いてしまうほど、圧倒的・絶対的なものなんだっていう。
で、結局、現実世界に疲弊した僕が、雪の妖精(つまり見失いかけていた自分の本質的なもの、魂みたいなもの)と出会い、交わることで、その存在が確かに自分自身に内在していることを思い出す。その想起の作業こそが、疲弊しきっていた僕にとっては救世主とさえ言いたくなるほど救いになるものだった。

自分が完全感性の赴くままに書いた文章からその時の自分の心理状態を読み解くのはそこそこ面白かった。あと「僕」ってもうほぼ私みたいなもんで、これと同じ作業を実際にのちの思考活動で反復みたいな感じでやってるから、それを鑑みると、自分自身の思索よりも先に言葉の戯れ(小説形式でメタファーに投じて書く作業)が自分の悩みを紐解く鍵を握ってたと言ってもいい。言葉が私の思考に先立って私を導いてくれた、個人的にはささやかながらもすごく画期的な経験だったように思う。


※2 これは11月の頭にブログ書こうと思って、結局書き切らなくて中途半端にしてた文章。自分を信頼できないのは自分を散々裏切ってきた経験が原因だとしていたけど、さらに突き詰めて自分に一貫性が無いという致命的な弱点に気付いたときのやつ。ちょうど難解すぎる哲学書にブチギレてた(アホなのが悪い)タイミングだったので時間がどうとか言ってる。すごいかっこつけてる。


このブログは、散在する思考や感情を書き留めていくことによって、後から振り返った際より正確に自分の辿った軌跡を理解すること、を目的に始めたものでした。記憶って基本的にはご都合主義なので、実際その時々に得た肌感なるものはリアルタイムの記録が無ければ簡単に書き換えられてしまいます。特に私個人に関していえば、思考と情緒が秋の空もびっくりの移ろいやすさで、常々自分が”今現在”置かれている物理的・精神的条件に支配されるしかない従的物体なんだと思わされています。今は絶えず過去になり、過去の地点に立つ私はたしかに”私”自身であるはずなのに今の自分と明らかな相違があります。昨日の私と今日の私を、10秒前の私と今の私を「同じである」と呼ぶのは真なのか。自分として存在する限り完全な客観を捉えることができないように、不可逆的な時間の流れに身を置く以上今この瞬間の自分が絶対的優位性をもっている事は否めないのではないだろうか。同じ川に二度入ることができないように、過去の自分がたしかに自分だからといって、その当時と全く同じ思考や感想を再び自分の中に喚起できるわけじゃない。だとしたら過去の自分と今の自分をどうして同じものだと言えるのか。体内の細胞ひとつとっても両者は明確に違いがある。
思考の暴走はここまでにして、とにかく私はこの脅威(記憶の書き換えに対する抵抗感)から、こうしてブログを書くことにしたんだけれど、そこでまた気付き?があった。当たり前だけど、蛇口を捻って流れ落ちる水みたいに、絶え間なく流動していく自分の一つ残らず全てを記録するなんて事は出来ないわけである。そうすると文章として記録したこういうリアルタイムの思考状況さえ、抜粋や抽出や失念なんかによる不完全に晒されるのは常なわけで、やっぱり正確な記録っていうのは難しいんだろうなと思う。あと、言葉は有限にも関わらず強靭である。そして強靭さそれこそが諸刃の剣である。混沌とした思考を言葉によって文節していき、整然立たせる事は、心地いい理解と引き換えに有限なそれが掬いきれなかったものたちを無視していくことでもある。置いていかれた混沌たちは忘れ去られ、単なるぼやけた背景と化していく。覚えていられないから。記録できないから。無念!でも仕方ないんだろうね。そこを突き詰めようとして記録の有限性に打ちひしがれるよりは、もう諦めてなるべく正確で網羅的な記述をすることに徹した方がいいんだろう。
人間ってかなしい。




人間って、かなしい!!

おしまい